聞く耳
マルコによる福音書4章21~25節
「聞く耳のある者は聞きなさい(23節)」とイエス様は言われます。
1.ともし火
新約聖書の時代は、小さなランプに火をともして明かりとしていました。そのともし火をわざわざ覆ってしまえば何の意味もありません。ともし火は燭台の上に置かれて、隠れているものをあらわにし、秘められたものを公にします(21~22節)。
イエス様はご自分を「ともし火」にたとえました。イエス様に向き合い、その光の下で聖書の言葉に聞くとき、神様の思いや考え、そして約束や計画が明らかになります。逆にともし火であるイエス様に背を向けていれば、どんなに目を凝らしても私たちに本当に必要で、本当に求めているものは決して見えません。
わたしに聞く耳のある人は聞きなさい、とイエス様はあなたを招いています。
2.何を聞いているか
「何を聞いているかに注意しなさい(24節)」ともイエス様は言われました。
その意図は単に注意して聞きなさいというよりも、聞いていることがどれくらいスゴイことなのかを知りなさいということにあります。
聖書の他の個所には、こうあります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です(Ⅰコリント1:18)」聖書には全ての人に必要な真理が示されています。それは世界の創造主についてであり、その方の愛についてであり、罪の赦しであり、永遠の命と天国の約束であります。それは本当にどんな宝よりも高価で不可欠なものです。嘘でもいいから信じて真剣に聖書から「聞いていること」を受け取るならば、あなたはそれを得ます。
3.信仰の秤(はかり)で
最後にイエス様は「あなたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる(24節)」と言われました。あなたが最初から「どうせ聖書なんて」と自分で限界を決め、受け取る器を小さくすれば、それ以上は決して受け取れません。しかし、信仰の秤でイエス様の与えてくださるものを受け取ろうと期待するものは、人の期待をはるかに超えた主の恵みを受け取ります。
<思い巡らしてみましょう>
聞く耳がありますか。信じて聞いていますか。期待していますか