神様に見つめられる幸い

ルカによる福音書6章20~26節  牧師 綿引久美子

『幸い』で有名な今日の箇所。今日はルカが記した『幸い』に心を留めます。

1.弟子たちに目をあげて見つめるイエス様(17,20節)
 今日の箇所は、とても有名な箇所で、マタイとルカに記されています。イエス様の言葉が弟子たちに伝えた言葉であること、そして『幸い』から始まり、『2人の人が家を建てるたとえ話』で終わるところは共通していますが、内容を細かく見ていくと多くの違いがあります。その大きな違いの一つは、語った場所です。マタイでは、山に登り、弟子たちに近寄ってお話をされました。イエス様が一番話を伝えたい相手を選び、自ら歩み寄る謙遜な姿が描かれています。一方、今日の箇所であるルカは、山から下りで平らな土地に立ち、イエス様に触れたい群衆に揉まれながら、弟子たちを見上げてお話しをされています。この世の中では、教える人が教えられる人に対して、目を上げることはありません。イエス様は、天から降り、人となられ、私たちより目線を下げて、子供に話すように話をしてくださる姿が描かれています。この姿もイエス様の謙遜の姿を教えています。

2.『幸いとは』(20~23節)
 『幸い』とは何ですか?幸せですか?幸運ですか?どちらも人の営みの中にある豊かさを表わす言葉です。イエス様の言う『幸い』は、人の営みの中にあるものではありません。イエス様を通して、天からくる人の生み出すことのできない心の安らぎです。不幸と思われる状況の中でも、『幸い』はあります。心の向かうところが違うのです。イエス様の灯す光は、どんな苦しみの中でも、悲しみの中でも、神様の懐の中に向かう一筋の希望の道が示されています。そしてその道はいつも神様に手をひかれ、共に歩むのです。その手は温かく、私たちに安らぎを与えます。

3.4つの『幸い』と4つの『不幸』(20~26節)
 マタイでは8つの『幸い』が描かれています。ルカでは4つの『幸い』と4つの『不幸』が描かれます。『不幸』は、他訳では『哀れだ』と訳されています。しかも、『不幸』は、原文では感嘆詞が用いられ直訳では『ああ、哀れだ。ああ、なんという悲惨さ。ああ、なんと気の毒なんだぁ』と悲痛な叫びの声のように描かれています。その人の生き様に、真の『幸い』をもたらしたい神様の嘆きの声にも聞こえます。
 神様の眼差しは、神様の言葉の中にあります。日々の生活の中で、御言葉を私たちが心に蓄えることで、神様の『幸い』に生きることができます。マタイとルカがそうであったように、同じ神様の言葉でも、その人それぞれに語りかける神様のメッセージは違います。あなたにだけ語る神様の言葉を蓄えて、幸いな人になりましょう。