分け隔てない理由

マタイによる福音書22章15~22節  牧師 鈴木光

イエス様を罠にかけようと二つのグループの指導者たちが接近してきます。

1.手を取り合って足を引っ張る人々
 「ファリサイ派」は旧約聖書の教えを守ることに情熱を燃やす人たちで、普段はローマ帝国を敵だと考えていました。一方、「ヘロデ派」はユダヤ豪族のヘロデ王たちを支持する人々で、ローマ帝国を支持していました。水と油のような二つのグループですが、イエス様と言う民衆の人気を一身に受けている存在に対し手を取り合って攻撃をしてきました。
 彼らは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか(17節)」とイエス様に質問しました。「適っている」と答えれば、ファリサイ派の人々は「イエスはローマ派だ」と騒いでユダヤの民衆の人気を下げることができ、「適っていない」と答えればヘロデ派の人々がローマ帝国に「反逆者です」といいつけたでしょう。どちらにせよイエス様を抹殺しようとする試みでした。
 ここには、「悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念…(ローマ1:28~32)」といった内面の罪が凝縮されています。それは、外側をきれいに取り繕えば人にはばれない罪の姿でしょう。しかし、聖書はその実の姿を明らかにしています。
 彼らの姿は私たちの鏡です。醜悪に見える彼らの問題が私たちの内にもありませんか?

2.皇帝のものは皇帝に、神のものは神に
 イエス様は彼らの二択に違う答えをしました。ローマ帝国に納めるローマの銀貨を持ってこさせ、そこに刻まれた皇帝の肖像と銘を確認させました。そして「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい(21節)」と言われました。指導者たちは驚き、逃げるように立ち去っていきました。イエス様の一言は、彼らに自分たちの小ささと見ている方向の違いを気づかせたのでしょう。奇しくも彼らが言ったとおり、イエス様は「だれもはばからず」「人々を分け隔て」しません。それは、イエス様が人の目を気にする必要のない神様ご自身であるからです。
 また、同時にそのイエス様が彼らの罪をも「分け隔て」せず、一緒にその身に負って十字架にかかられたことも思います。このイエス様の姿に私たちはどう応答するでしょうか。
 
<思い巡らし>
指導者たちの内面の問題に共感するところはありますか/彼らの罪も、私たちの罪もすべて担われたイエス様の姿にどう感じますか。