神様の目には

マタイによる福音書18章1~14節 

この地で神の家族の集う教会、しかし、人は、人と比べ自分の存在意義を見出す性質は変わりません。イエス様は真の存在意義を教えてくださいます。

1.人の想い(1~3節)
 「天の国で一番偉いのはだれか?」弟子たちは、イエス様に質問します。イエス様は「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と応えます。この直前にイエス様は、ご自分の死と復活の予告をしています。しかも2度目の告知です。弟子たちは、自分たちの天国でのポジションに心を奪われ、今までずっと一緒にいたイエス様の苦難のことには思いが至らないのです。
イエス様は、「天の国は、イエス様ご自身を受け入れなければ、入ることができない」ことを弟子たちに教えます。
2.つまずき(6節)
 「つまずき」という言葉から私たちが想像するのは、人の心を傷つけてしまうことや、教会であるならば、信仰の歩みに悩みを持たせてしまうことだと思います。しかし、ここでいう「つまずき」は罪を犯すことで、「つまずかせる」ことは、罪を犯す機会を作ってしまうことです。聖書では、「この世」はサタンの支配にあると記されています。つまずきは、避けられません。イエス様は、自分自身がつまずかないこと、そして人をつまずかせないことの大切さを弟子たちに話されました。そのために、「自分が小さな者(自分を低くし謙遜であること)」として生きることを弟子たちに教えます。
3.神様の目には(10~11,14節)
 イエス様は、『小さな者』が私達自身のことであることを伝えてくださいます。人の目の先には、いつも人がいます。そしてその人と自分を比較して生きることは自然です。しかし、神様の目の先に映るのは、乳飲み子からスタートされたイエス様を手本とする私達です。神の家族は、いつもイエス様の姿をみて、その姿を手本に生きています。そこは既に神様の目の先にある天の国であり、神様の御心に適ったところなのです。神様の御心、それは神様のご計画が実行されている、神様の喜ばれる場所です。そこに私たちの存在意義があるのです。神様の目には、私たちすべての人が、一番偉い一人一人なのです。