安息日の主
マタイによる福音書12章1-14節
ファリサイ派の人々がイエス様を攻撃し始めます。最初の話題は「安息日」です。
1.安息日の主
「安息日」は十戒で定められた、7日に一度、仕事を休み神様にささげる(礼拝する)日のことです。ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちが麦をつんで食べていたことを見とがめ、それが安息日であるために責めました。
イエス様は旧約聖書の言葉を引用して、それが見当違いな理解の仕方だと話します。そして「人の子(イエス様のこと)は安息日の主なのである(8節)」と言いました。これは、そもそも安息日を定めた主が人となられたのがイエス様なので、安息日の制定者に安息日を説教する愚かさを伝えています。
2.律法は滅びを教えて命を得させるもの
では、安息日をはじめ律法(旧約聖書の教え)の本来の意図は何でしょうか。イエス様は「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない(7節)」という旧約聖書の言葉を語ります。「いけにえ」は神様の裁きがくだるところを意味しています。一方で「憐れみ」は「ゆるす愛」です(参照ホセア6:6)。
聖書の律法はもちろん守るべきものです。そして、同時にそれを守り切れない(正しく生ききれない)人の罪の問題を明らかにするものでもあります。しかし、その罪を知って神様の前に悔い改める人をどこまでも赦すのが神様の愛です。
やがてイエス様がかかる十字架は、私たちの受けるべきすべての罰を代わりに受けるためのものでした。主はあなたを愛し、ゆるされて生きることを望んでいます。
3.律法は神様との関係性が豊かに築かれるためにある
さらに聖書では「憐れみ」という言葉は、内臓を痛めるように相手の痛みを共感することからきています。安息日も元々は、仕事を休み、その日を「聖別する」つまり神様専用のものとしてささげることを求めています。神様は単に「○○しなさいorするな」という規則を守ること以上に、神様の思いを知るためにこそ律法を定めているのです。あなたは神様の心を求めたことはありますか。今、主と思いを一つにすることを期待して、主の御前に進み出てみましょう。
<思い巡らし>
イエス様は主です。主の思いを求めて祈ってみましょう。