もしこの日に

ルカによる福音書19章28~44節  牧師 綿引久美子

イエス様がこの地に来られた後の時代に生きる私たちの「この日」は?

1.旧約の時代に言われていたこと(35節)
イエス様が、十字架にお架かりになるために、エルサレムへ入城されることは、旧約の預言者を通して、私たちに教えられていました。(聴く耳のあるものだけのわかることですが…)イエス様と行動を共にした弟子たちも、イエス様からエルサレムに向かう道中で何度もそのことについて教えられていました。『子ろばに乗って』入城されることは、ゼカリヤ書9章9節に記されています。わざわざ2人の弟子に、子ろばを借りてくるように命じるイエス様は、『主がご入用なので』という理由まで伝えて使いに出すのです。しかし、弟子たちは全くこのしるしに気づけませんでした。旧約の時代に言われていたことが、この日に実現することをイエス様は教えたのです。

2. 歓喜の入城と涙の入城(36~38,41節)
イエス様が、エルサレムの町が近づくと、人々はイエス様を歓迎します。弟子たちも、イエス様のなさった奇跡を思い起こし、人々の歓びに合わせるように、イエス様のエルサレム入城に歓喜の声をあげます。(詩篇118:26より)しかし、イエス様はエルサレムの町が近づくと涙を流されます。エルサレムに入城することは、十字架の苦しみが近づくこと、イエス様にとっては父なる神様に見捨てられる最も苦しい時が迫ることを意味するのです。弟子たちとイエス様の御心は全く違っていました。ベタニに住むマリアだけはイエス様の御心を知っていました。(ヨハネ12:3)

3.「もしこの日に」(42節)
『もしこの日に、お前も平和の道をわきまえていたら・・・』イエス様が涙を流しながら口にした言葉です。この後の言葉はこの町が滅び事はなかった。これはエルサレムが陥落することを預言しています。実際紀元70年には、エルサレムは陥落します。イエス様は、エルサレムの町に救い主として受け入れなれませんでした。十字架にお架かりになったのは、救い主イエス様を拒む罪の故です。エルサレムのユダヤ人は、この日にメシア(イエス様)が来てくださったことを知らなかったのです。自分の造り上げた偶像の救い主をイエス様に見ていたのです。平和の道を開かれるイエス様を知ることはできなかったのです。ゼカリヤ書9:9は、『イエス様の到来』であるこの時を教えています。そしてゼカリヤ書9:10は『イエス様の再臨』を教えています。私たちは、すでに来てくださったイエス様の到来からまだ来ていないイエス様の再臨を待ち望み、今を生きています。『この日』の真の救いに対して、もっともっと喜び溢れてもいいのではないのでしょうか?