復活の目撃者
ヨハネによる福音書20章1~10節 牧師 鈴木光
今週は受難週です。十字架の恵みを受け取り、イースターを迎えましょう。
1.空の墓の意味すること
今日の個所ではマグダラのマリア、福音書を書いた使徒ヨハネ、そして最もよく登場する使徒のペトロの三人が、イエス様の復活した朝、墓に遺体がないことに気づいてどのような反応をしたかが記録されています。
まず、マグダラのマリアは朝早くから惨殺されたイエス様の遺体を処置して上げようと墓に向かいました。そして、重く閉ざされているはずの墓の入り口が開き、遺体がなくなっていることに気づいたのです。そこで彼女は「主が墓から取り去られました(2節)」と言います。
彼女にとってのイエス様はあくまで頼れる先生(参考16節)であって、同時にもう動くことのない亡くなった存在でした。それで空になった墓に死んでいるイエス様を探しても見つけることがなかったのです。ある意味で常識的な理解です。
しかし、聖書はイエス様が復活したことを告げています。復活を前提にしたならば、空の墓は当然のことなのです。あなたは空の墓に何を見ますか。
2.復活の目撃者たち
マリアは空の墓を「見た」だけでした。次にそのことを知らされたヨハネとペトロが墓に来ます。先に着いたヨハネは「身をかがめて中をのぞく」と遺体を包んでいた亜麻布を見つけました(3~5節)。後から着いたペトロは墓の中に入り、遺体の頭を包んでいた覆いが(頭そのままの形で)丸めてあることに気づきます(6~7節)。それは仮死状態だったイエス様が目覚めて覆いをはぎ取ったのではなく、確かに一度死んだイエス様が完全に復活したことを意味していました。
死と復活に向き合おうとすると、私たちは得体のしれない恐れを感じて尻込みします。しかし、一歩ずつこの復活の出来事に向き合っていく時、私たちは本当にイエス様が復活したことを確かに目撃していくのです。
3.復活は神様の必然
それでも彼らはまだ復活したようだとは分かっても、復活の真の意味を理解してはいませんでした。(後に復活したイエス様と実際対面して分かっていきます。)復活はあってもなくても良いオプションでなく、することに「なっている(9節)」神様が私たちに天国の永遠の命を与える確かな約束の証明なのです。
<思い巡らし>
イエス様は復活した/復活と向き合おう/復活の意味を受け取ろう