何を見ている?

ルカによる福音書7章18~35節  牧師 綿引久美子

あなたは、何を目指して、日々命を紡いで生きていますか?。

1.洗礼者ヨハネの弟子とイエス様の弟子(18~21節)
洗礼者ヨハネは、この時、獄中にいました。そしてヨハネの弟子たちは、ちまたで、話題になっていたイエス様についての情報をヨハネに伝えていました。この時、まだ旧約の救いの中で生きていた時代です。イエス様がなさったことは、あまりに新しすぎて、驚くことばかりでした。なぜなら『神の国の奥義』が目に見える形で表されていたからです。ヨハネは自分と弟子たちの日々の行いと、イエス様と弟子たちの行いのあまりの違いからイエス様に「来るべき方はあなたでしょうか?」と問いをもってしまいます。気づかないうちに、私たちは信仰に「自分の型」を持っています。

2.つまずき(23節)
ヨハネの弟子の質問に答えた後、イエス様は群衆に問いを投げかけます。「何を見に行ったのか?」洗礼者ヨハネの元へ何のために行ったのか?何を見たのか?と群衆に投げかけるのです。この著者ルカは、洗礼者ヨハネについて誕生の出来事を書き記しています。神様の遣わしたイエス様と同じような奇跡の子供です。イエス様と違うのは「神の子か人間の子か」ということです。彼が偉大なのは、神様の御業の中で誕生したその原点にあります。しかし、私たちは、目の前にある自分の信仰の型を通してみる「自分の悔い改め行為で赦された間違った救済」です。口では、神様に救われたと言いながら、自分の信仰の行いを信じる信心に信仰の型を見出してしまいます。
イエス様の地上でのお姿は、決して信仰の型を通して理解できるものではないのです。なぜなら『神の国』のことだからです。ここにつまずきが生まれます。

3.目指すは神の国の人(20~26節)
私たちは、神様を信じて歩むとき、信じる思いが強ければ強いほど、自分で築く信仰の型を作ります。それは頑なな心を作り、神の国のことを受け付けなくなることがあります。この地でクリスチャンとして生きようとする時、素晴らしい奉仕者、素晴らしい聖書理解者、クリスチャンとして素晴らしい人格者を目指すのではないのです。
目指すは、神の国の住人であることです。神の国の住人になるということは、自分のクリスチャンとしての品位を磨くことではありません。神様を知ることです。救い主イエス様を信じるということは、神様のしてくださることを喜んで、神様に感謝して生きるというシンプルな生き方です。自分に期待しないで、神様に期待して生きることです。「クリスチャンは気楽な稼業だ」。アーメンです。自分自身を信仰の型で縛らずに、イエス様にあって自由にしてあげましょう。
『神の国の住人の特権は大いに使って世の苦しみも楽しく生きましょう!』