人のための安息日
ルカによる福音書6章1~11節 牧師 綿引久美子
イエス様の人気が話題になる中で、イエス様を妬む敵対者が生まれてきます。 しかし、イエス様はご自分が救い主であることを言い続けるのです。
1.ユダヤ人にとっての律法(2節)
イエス様や弟子たちが各地を回って教えておられると、イエス様の話を聞きたい人や、イエス,本兼に病気を癒してほしい人など、うわさを聞きつけて多くの人が集まってきます。しかし、この時代の神様の専門家であるファリサイ人や律法学者たちは、自分たちより注目され慕われるイエス様と弟子たちが目ざわりでなりません。そんな時、律法の中でも『安息日』についてのことでイエス様に文句を言います。律法はこの時代のユダヤ人の根幹をなすほどの大きなものです。ユダヤ人の神の民という存在意義を立たせている重要なものです。そこでイエス様と言い合います。
2.人の子は安息日の主(5節)
『人の子』は、福音書の中でイエス様が`ご自分のことをお語↓りになる時の呼び名です。ここには、イエス様が神様であることを示すご性質、特にいのちの救いに関する話題の時に、この言葉を使います(メシア的表現)。イエス様はここでご自分は『安息日の主』だと言われます。安息日の権限はイエス様にあるということです。そもそも律法は、神様が人にお与えになった規範です。この規範は神様がお決めになったもので、人が守るのであって、神様が律法に縛られることはないのです。イエス様は律法をはるかに超えた権限があり、安息日は神様のために私たちがあらゆることの手を休めて、神様との関係に集中するために作られた規範です。
3.本当の安息日(9節)
『安息日』の語源は、作業をやめる、手を止めるといった意味があります。本来神様のために、私たちが、生活上の事柄の手を休めて、神様と共にある時間を取り分けることに目的があります。この律法の与えられた時代は、奴隷の時代。奴隷は、この安息日には、働くことをやめて、神様のもとで休むことができるところが元になっているとも言われています。ファリサイ派や律法学者たちは、その大元の神様の存在を忘れてしまいました。そして、この規範を守ることで、´立派な神の民を目指したのです。そして、彼らの中にある正義は、やがてイエス様を十字架にかけることとなります。プライドや知識は、この地上で得たものです。命があってこそのものです。その大切ないのちは、唯一の神様が与えます。