悲しみの後悔、喜びの悔い改め

マタイによる福音書27章1~10節  牧師 鈴木光

ユダヤの指導者たちが非公式にイエス様の死刑を決めた後、ユダはどうしたか。

1.「後悔」と「悔い改め」の違い
 イエス様を銀貨30枚で売り渡した弟子のユダは、イエス様の死刑判決を聞いて「後悔」しました(3節)。しかし、彼は後悔はしても、悔い改めることはなく自ら命を絶ちました(5節)。「後悔」は悪かったな、間違っていたな、と悔いて悲しむことですが、そこで終わりです。その先はなく、何度も堂々巡りをします。
 一方で、聖書で何度も語られている大切な「悔い改める」とは、イエス様の前に罪と後悔を持っていき(打ち明け)、イエス様と向き合って赦されること、です。

2.向き合うべき相手
 ユダはイエス様のもとではなく、売り渡した相手の指導者たちのところにいって「罪を犯しました」と告白しました。しかし、人間に向き合っても罪の問題は解決しないのです。実際、指導者たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と突き放しました。たとえこれが同情的な言葉であっても、根本的な解決にはなりません。向き合うべき相手は神様であり、また人となられたイエス様本人です。

3.赦されなさい
 また、ユダは銀貨30枚を指導者たちに「返そう」としました。でも、過去はなかったことにできないですし、自分で何とか元に戻そうとしても無理なのです。では、どうすればよいのか。それは、イエス様に赦されるしかないのです。
 イエス様は「血の代金(6節)」を支払いました。つまり、私たちが受けるべきすべての罪の代価を、自分の命で既に払ってくださったと言うことです。ユダはそれを受け取ることを拒んで、自分の命を支払いました。
 イエス様は十字架であなたの罪をすべて赦しました。私たちはそれを信じて、赦されていることを受け取るだけなのです。

4.ゆるされた者として
 イエス様を信じて赦された者は、もう支払いの必要はありません。既にゆるされたことを何度も後悔する必要はありません。もちろん、また失敗したら、またイエス様の前に進み出て悔い改めます。でもそれは罪に囚われた生き方ではなく、赦され愛されていることを何度も受け取る喜びの生き方なのです。

<思い巡らし>
後悔がありますか、イエス様の前に打ち明けて赦されましょう