彼は口を開かなかった

マタイによる福音書26章57~68節  牧師 鈴木光

イエス様がユダヤの最高法院で裁判にかけられます。裁判と言っても、イエス様をねたむ人々によって夜中にこっそりと行われるまるで不当で不正なものでした。

1.人を殺す「罪」
 大祭司や律法学者、そして長老たちとイエス様をねたむ指導者たちがイエス様を裁判にかけました。そのはじめから彼らは「死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた(59節)」のです。
 「殺してはならない、…隣人に関して偽証してはならない(出エジプト20章)」という十戒に反し、内面も「ねたみ、殺意、不和、あざむき…(ローマ1章)」と人間の罪の問題を凝縮したような彼らの姿です。彼らは私たちを映す鏡です。

2.負えない罪の共犯を求める
 当然(罪がないので)イエス様を罪に問えない彼らは、最終的にイエス様が神様を冒涜していると言い張って死刑判決をくだします。その時もリーダーの大祭司は「諸君は…どう思うか(65~66節)」とそこにいる全員に賛同を呼びかけて判決を勢いで決めていきます。罪のもう一つの特徴は、人は罪の責任を(最終的には)負えないということです。アダムとエバのはじめから、人は罪を犯す時に人に責任を転嫁しようとします。罪の共有で仲間意識を持つ、みじめな連帯感を生みだし、さらに罪を上塗りしていきます。これもまた私たちの中にある姿です。

3.彼は口を開かなかった
 さて、イエス様はこのどうにもならない私たち人間の罪の渦中にいて、どう応えられたのでしょうか。なんとイエス様は「黙り続けておられた(63節)」のです。
 イザヤ書53章6~7節には、やがて来る救い主が苦しみを課せられて「屠り場に引かれる小羊のように…彼は口を開かない」と書いています。それは「わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」からです。
 イエス様の沈黙は、実際は罪と何のかかわりもないイエス様が、何一つ言い返さずにその罪を全部自分の身に受け取っていく姿なのです。私たちのどうしようもない罪の問題を、イエス様はすべて自分のものとして十字架にかかりました。私たちが代わりに赦され、正しい者とされるためです。

<思い巡らし>
今日の個所にある人々の罪の姿に、自分の姿を見る所がありませんか?/ 私たちの罪をすべて負ってイエス様は十字架にかかり赦しました。