友の裏切り
マタイによる福音書26章47~56節 牧師 綿引久美子
いよいよ、イエス様は、目に見える受難の道を歩き始めます。
1.時が始まる(47節)
『立て。行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た』(46節)ゲッセマネで父なる神様に胸の内を打ち明け祈られたイエス様は、御子として、いよいよ見える形で受難の歩みをここからスタートさせます。『立て』は復活の際使われる言葉ですが、他に「起き上がる」「目を覚ます」の意味もあります。御子としてのイエス様の視線の先には、祈りの中にあった時の、苦難に対する恐れはなく、サタンに引き渡された後の勝利に目が向けられていることが想像できます。私達には、受難の道が、父なる神様の前に向かう犠牲の子羊の姿と重なります。しかし、その子羊は、自らの犠牲によって、神の救いの確証と重なっています。
2.裏切りの接吻(48~49節)
十二使徒のひとりであるイスカリオテのユダは、イエスの命を狙う祭司や長老たちの手下と、愛を伝える行為である「接吻」を裏切りの合図にします。接吻をしたユダにイエス様は、『友よ』と呼びかけます。イエス様と一緒に生活し、仲間として旅をしてきたユダ。裏切りを承知で『友よ』と呼びかけるのです。接吻は原文では『フィレオ』が使われています。まさに私達人のできる最大の『愛』です。ユダは、自分を犠牲にすることのできない人間の限界の姿、罪ある私たちの姿です。
3.神にできること、人にできること(51~54節)
人にはどう頑張っても自分を救うことはできません。人となられた神様(受肉のイエス様)だからこそ十字架の贖いはできたことです。今日の箇所は、私達人の限界を目の前に突き付けられているところだと思います。イエス様は、ただ父なる神様に託された使命のため、苦難を知りつつ、抵抗もせず、悪人の思うままに身を任せました。弟子たちは、イエス様の勝利まで知っていたにもかかわらず、目の当たりにすると、神様のもとから、散り散りに逃げていきました。ユダと変わりません。イエス様を裏切ったのです。神様のために私たちは、何もすることはできません。たった一つ出来ることは『信じて受け取ること』です。
犠牲の子羊となられた「イエス様の命」(永遠の命)を決して無駄にしないで生きることです。
(想い)
私たちはイエス様を裏切った友です。その友をご自分の命をかけて赦したのは、イエス様です。これが神の愛です。