マタイによる福音書23章16~24節  牧師 鈴木光

マタイ福音書の続きに戻ります。イエス様をねたんで攻撃してくる指導者たちについて、イエス様自身は何と語られたでしょうか。

1.見るべきものが見えてない人々
 イエス様は彼らを「ものの見えない案内人(16節)」と言いました。一つの例として、彼らが誓いを立てる時に最初から守れなかった時の言い訳を用意して誓うことをあげます。それが、論理的におかしいだけではなく、何よりも決定的な問題は誓いの本当の相手である「神様」自体が見えなくなってしまっていることを気づかせます。
 多くの人が信仰は道徳的な生き方のためにあるのだと誤解しています。スタート地点は神様が私たちを愛しておられることです。罪も欠けもあるけれど、赦され、愛されているから生き方が変わっていくのです。手段と目的、順番が入れ替わり、一番大切な神様ご自身の存在が見えなくなってしまうことこそが本当の不幸です。

2.役を演じる人々
 また、イエス様は彼らを「偽善者たち」と言いました。十分の一のささげもののような、人から見て明らかな評価を得られることは、香辛料の量まで細かにはかってささげるけれど、人には評価されづらい「正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」からです(23~24節)。
ギリシア語の「偽善者」とはもともと、(芝居の)役者を意味する言葉です。みんなに尊敬される「律法学者やファリサイ派」を演じている人々に、本来の「神様の前の自分」を見失ってしまっていることを気づかせます。人に見せる人生ではなく、本来の神様の前の自分を取り戻すために主の前に出ることを大切にしましょう。

3.ああ、なんということだ!
 「ものの見えない」「偽善者」である彼らに、あなたたちは「不幸だ」とイエス様は言います(16&23節)。これは、彼らへの攻撃ではありません。この「不幸だ」という言葉は悲しみや痛みをあらわす言葉が使われています。
 この後、まもなくイエス様は十字架にかけられます。その場所に彼らもいます。イエス様は「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ23:34)」と祈ります。彼らが神様を見失い、自分を見失っている姿を見て、愛するものが苦しむ姿としてそれを受け取り「ああ、なんということだ」と悲しみ投げているのです。
 「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである(5:3)」とイエス様は言います。自分の姿を振り返り、神様のもとに進み出ましょう。

<思い巡らし>
神様を見ていますか/自分の姿が見えていますか/イエス様の思いは