隣人は誰
ルカによる福音書10章25~37節 牧師 綿引久美子
善きサマリア人のたとえ話は、有名です。私たちは道徳的にこのたとえを聴きます。しかし、そこに「永遠のいのちの本質」が隠されています。
1. 律法の専門家の覚悟(25節)
「律法の専門家」はイエス様を試そうとします。この時、私たちは、イエス様を試そうとする「たくらみのある心」に目を向けます。しかし、「立ち上がり」という言葉は、言語では「ただ一度の行動に覚悟を決めて臨む」という意味を持って使われています。律法の専門家が、イエスに対する嫌悪感でこの質問をしたのではなく、自分の信じる「聖書の中にある神様」について、議論を持ちかけたことがわかります。これは、道徳的な行動の模範の話ではなく、「神様の御性質が生きている永遠の命」の話です。
2. 議論のポイント(25~28節)
彼ら(律法の専門家)は、「永遠のいのちは何をしたらもらえるのか?」と質問します。ここには、彼らの行いが神様の目にかなって、永遠の命をいただけているという自負があります。全てをご存じのイエス様は、「彼らが律法をどの様に受け止めているのか?」尋ねます。彼らの答えを聴いたイエス様は、「正しい答えだ。実行しなさい」と応えます。また、さらに自分の正当性を主張する彼らは、「私の隣人は誰か?」と質問します。
「善きサマリア人のたとえ話」は、そもそも「永遠のいのちの中にある神様の御性質」を現しています。「このいのちを受け取る人は、当たり前のように、自分に犠牲を払ってでも、助け求める人を見捨てず助けるおこないをする」ということです。それが神様の愛であり、神様の本質だからです。
3. 隣人はイエス様(29節)
私たちは、このたとえ話を聴くとき、自分を「助ける側の人」として聴きます。しかし、私たちはそもそも、神様に救い(助け)を求めて、イエス様に助けられた者です。今を生きるこの世界で、生きづらさを覚え、声をあげた一人一人です。「罪」という強盗に襲われて生きる力を失いかけた一人一人なのです。
人は神様に「義とされて」救われます。神様と私たちの関係こそが隣人との関係の基なのです。「あなたとイエス様の関係」が一番の基となる隣人との関係です。
思いめぐらし:神様が日々隣人となって助けてくださっていることを覚えましょう。
「永遠のいのちは神の愛そのものです。神は愛です。