収穫の時
マタイによる福音21章33~46節 牧師 綿引久美子
「もう一つのブドウ園のたとえ」を通してイエス様は、ユダヤ教の宗教指導者たちの隠された心の奥底の想いを引き出します。
1.ブドウ園(33節)
今回も「ブドウ園」をテーマにしたたとえは続きます。「ブドウ園」は、イザヤ書5:1~7(旧1067)に記されているところから、「イスラエルの家」つまり「神の民であるイスラエル人」であることがわかります。神様は、「ブドウ園」を耕し、良いブドウを植え、畑を見渡すためのやぐらと、収穫の時絞るための場所を用意するほど、良い実を収穫する時を楽しみにしておられました。神様がいかに私達に手をかけ、愛の内で大切に育んでおられるかがわかります。しかし、イザヤ書から見れば、そこでならせた実が「酸っぱいブドウ」であったことがわかります。「酸っぱいブドウ」は、「悪臭を放つブドウ」で捨てるしかないブドウ。神様を失望させてしまいます。
2.人のいい主人(35~39節)
今回のたとえは、「主人とそこで働く農夫たち」。主人は神様、農夫たちはユダヤ教の宗教指導者であることがわかります。農夫たちは、収穫の時が来ると、収穫のために主人の遣わした使用人(僕)を殺します。主人は三度目、自分の愛する一人息子を送ります。「私の息子なら歓迎してくれるはず」と考える人のよさ。しかし、息子を殺せば、ブドウ園は自分たちの者になると考えた農夫は、息子も殺してしまいます。皆さんは気づきませんか?僕を殺した所に、自分の愛する息子を送るでしょうか?これこそが神様の愛です。この農夫たちも、神様を失望させます。
3.収穫の時(43~44節)
必ず収穫の時は訪れます。全貌が明らかになる神様の時です。「収穫」は、畑にとって一区切りの時です。その後畑を耕し、新たな種をまくのです。必ず収穫の時は来ます。ここでは、「イエス様の十字架の時」を示します。そして、3日目の「復活」は、収穫を終えた新しい畑を示します。イエス様の十字架の後、復活し、新しいブドウ園が出来るのです。
神様にすべてを明らかにされる「収穫の時」、ユダヤ教の宗教学者たちの胸の内は、告白で明らかにされ、神様のご計画は、詩編118編の引用をもって、イエス様の言葉で明らかになります。
私達も必ず神様の「収穫の時」を迎えます。