ここは祈りの家

マタイによる福音書21章12~17節 

イエス様を敵視するファリサイ派の人が罠にかけようとやってきました。「何か理由があれば離婚はオッケーか」という、聖書学者の論争に巻き込もうとします。

今日は、鈴木牧師が体調不良のため、急遽私がメッセージを取り次がせていただきます。
今日の箇所は「宮きよめ」と言われて箇所です。マタイのよる福音書では、エルサレムに入られた直後にこの箇所は置かれていて、十字架の苦難の始まりのところに位置しています。
また、マタイによる福音書では、旧約の御言葉を多く引用しており、祭司長や律法学者の怒りの詳細が記されています。「神殿」とはなんであるか?このテーマをもって御言葉に聴いていきます。

1.神殿での出来事(12節)
 イエス様は、エルサレムに入られると神殿に向かいました。そこで、両替えをしている人や、献げ物の鳩を売っている人達をみて、神殿から彼らを追い払います。「神様のために献げるものを手に入れることの何が悪いのか?」自分の徳ではなく、神様のためにしていることなのに、イエス様はなぜこのように追い払うのか、人は誰でもこのような思いを抱くと思います。私たちは、神様のために行う自分自身を正当化しようとします。しかし神様は、そんな私たちの胸の内を見ておられ、ユダヤの人たちが大切にしている旧約の御言葉を引用して、天における神殿とこの地の神殿での現状を教えます。

2.「祈りの家」と「強盗の巣」(13節)
 イエス様は、「神殿は私の家であり、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われます。これこそが天における神殿の姿です。イエス様は、イザヤ書56章の御言葉を引用して、祈りの家は「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、主の約束を守る人達の居場所であり、その人そのものであること」を教えます。
 一方、地の神殿の現実は「強盗の巣」であると言われました。イエス様は、エレミヤ書7章の御言葉を引用して、強盗の巣である神殿は、「口先だけのむなしい言葉で神の名を呼び、自分のために神様を利用し、私腹を増やしている。そして、自分の人生のすべて自分の想いに適ったものにしようと欲を満たす。」そのような人の居場所であり、その人自身であると教えています。
 この一連のことが示しているのは、神殿で商売をしているという見える行いに対し、目を留められたのでないことがわかります。これからご自身が命をかけて闘う「目に見えない人の心にある罪の部分に対する戦いの宣言」であることがわかります。これが神様にある「宮きよめ」の真実です。

3.「ダビデの子にホサナ」(16節)
イエス様は、この後、いつもと変わらず病人を癒し、不思議な業(奇跡)を行いました。
それを見ていた子供が「ダビデの子にホサナ」(救い主よ、私を救ってくださいの意味)と叫びます。このことに、祭司長や律法学者は怒り、イエス様を殺害しようと思うのです。
 神様は、人を賛美するために(神様をほめたたえる)ためにお創りになりました。子供達の姿こそ、神様の望んでおられる私たちの姿です。
 「神殿」は、神様と私たちの関係の姿です。神様に心を打ち明け、向き合うことこそが「神殿の姿」ではないでしょうか。