神が結び合わせた
マタイによる福音書19章1‐12節
イエス様を敵視するファリサイ派の人が罠にかけようとやってきました。「何か理由があれば離婚はオッケーか」という、聖書学者の論争に巻き込もうとします。
1.神が結び合わせたもの
「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった(4節)」とイエス様は応えました。ファリサイ派の人の問いには、「離婚」が前提で、最も重要な創造主の姿も考えも出て来ませんでした。人の都合に神の裏付けはできるか、という視点がそもそもずれていると気づかせる応えでした。
続けて「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはいけない」と言い、結婚とはそもそも神様との関係の中での約束であることを諭します。
結婚のみならず、すべてのものを造られた神様を抜きにしてスタートする考え方は、出口のない迷路に迷い込むようなものです。
2.仕えるため、愛するため
本質をつかれたファリサイ派の人は、モーセが「離縁状を渡して離縁するように命じた」じゃないかと、旧約聖書の記述をあげて反論します(7節)。イエス様は冷静に「それは命令ではなく、人間の心がかたくなで、離婚できないことで余計苦しむ立場の人を守るために許された内容だ」とはっきり応えます。主は愛するものが虐げられることを喜びませんから、時として離婚は起こることがあります。
またそれ以前に、神様は女性を助け手として造られ、男性は女性を見て「わたしの骨の骨、肉の肉(創世記2:23)」と言って喜びました。聖書は結婚する二人の男女は互いに仕え合い、愛し合うように造られていることを教えます。
3.損得でなく恵みとしての結婚と独身
このやり取りを聞いて、(男性の)弟子たちは、そんなに面倒で厳しいことなら、結婚しない方がましだと言いました。しかし、それに対して独身であるということもまた、神様抜きでは起こらない「恵み」なのだとイエス様は語ります(11節)。結婚は損得ではなく恵みとして与えられ、様々な事情や理由で独身であるように導かれた者もまた恵みなのだと語ります。
<思い巡らし>
結婚とは神様との約束/互いに仕え、愛する/損得ではなく恵みで。