ここに、私の所に
マタイによる福音書17章14‐21節
イエス様のもとに悪霊に苦しめられる息子を持つ人が助けを求めてやって来ます。
1.ここに、わたしのところに
息子が苦しめられているこの男性は「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」と言います(16節)。それに対してイエス様は「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆いて言われました(17節)。
「時代」というように、特定の人を嘆いているというよりも、人間のもつ「信仰のない」姿を嘆いているようです。ここには「願い出た父親」と「弟子たち」の二つの「信仰のない」姿があらわれています。
まず、父親は「お弟子たちのところに連れて来ましたが」と言うように、何かこのイエス派集団の不思議な治癒能力を求めてきたように見受けられます。しかし、イエス様は嘆いた後に「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と言われました(17節)。救いはイエス様なのです。大切なのは「どこに」「誰のもとに」行くかなのです。イエス様を求めて、イエス様のもとに行く人は幸いです。
「よこしまな時代」とは、「ひねくれている」とか「背を向けている」という意味です。イエス様に背を向けて弟子たちに求めても何も得るものはありません。
2.信仰は「ある」か「ない」のどちらか
続いて今度は「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか(19節)」と問いかける弟子たちに、イエス様は次のように答えます。
「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる(20節)」
「信仰が薄い」と訳されていますが、原語はもっとストレートに「信仰がないから」と言っています。からし種は本当に小さな種です。信仰は「ある」か「ない」かです。信じたい(信じたくない)気持ちは大きくなったり、小さくなったりするかもしれませんが、信じると決めれば「ある」し、そうでなければ「ない」ものです。イエス様を、神様を、聖書に書かれたとおりの方と信じることが大切です。
<思い巡らし>
イエス様を求めましょう/信じると決めて告白しましょう。