苦しみと喜び

ヤコブの手紙5章13節 

創立74周年記念礼拝で、二宮めぐみ牧師先生の説教です。

「苦しんでいる人、それは私だ!」と思う方がいます。そして「自分一人がこんなに苦労を背負い込んでいる」と思いがちです。ところが苦しんでいるのは、あなた一人ではないんです。それに気づかないで、一人で全世界の苦労を背負い込んでいる気分になっています。愚痴もでますねぇ。
 私も、そんな一人でした。幸雄牧師が天に召されてからこのかた、「喪失体験」に悩まされながら、舞い込んでくる諸問題に頭を悩ませながら、「あ~あ」と溜息をつくばかり。「嘆きが踊りに変わる」というわけには参りませんでした。

 けれども、私たちクリスチャンには特効薬ともいえる、解決法があるんです。それが「祈り」です。
 昨年の秋、大泣きしました。「神様、寂しいです!どうしようもありません。」と涙ながらに訴えました。そのとき「あなたはひとりぼっちじゃないよ。私が共にいるよ。」との主の声を聞くことが出来ました。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
                     (Ⅰヨハネ4章19節)
 ここに、人間同士の愛を超える愛があります。その最初の愛に、触れるようになって、自由を見出します。私たちは苦しみを通して痛みに敏感になり、祈らざるを得ません。むしろ祈りに赴くようにと、主が苦しみを与えてくれているかのように思われる時があります。そしてその傷を主が癒やしてくださるという貴重な体験を致します。

 また、状況的に良い場合のみ喜ぶことが出来ると考えがちです。しかし、真の喜びはキリストを体験することからくるものです。主からは、「あなたが人に好かれようと嫌われようと、わたしはあなたを愛している」との声がかけられます。喜びの根拠は、主との交わりにあります。そして主に導かれることで、私たちは物質的なことや評価されることから開放されます。喜びと賛美は見事に連携します。まさに讃美歌21-522番「キリストにはかえられません」で歌われている通りです。まだ本気でそう信じられなくても、歌のことばを口にすることで、私たちは自分の耳
でそれを確認し、「そうだ!やっぱりそうなんだ!!」と思えるのです。
 祈りがお願いする傾向の「請求書」であるとすれば、賛美は「領収書」です。
私たちを導いてくださる主に、感謝の祈りと賛美をささげましょう