できると信じるか

マタイによる福音書9章27~34節 

イエス様が盲人を癒し、悪霊にとりつかれた人を解放します。

1.信仰に応えるイエス様
 二人の盲人がイエス様のもとに来て「憐れんでください」と言います。イエス様は「わたしにできると信じるのか」と問いかけます(27~28節)。二人の盲人は具体的な願いを言っていませんが、彼らの心の中をもイエス様は知っていました。そして目に触れ、「信じているとおりになるように」と言うと彼らは見えるようになりました(29~30節)。
 イエス様は私たちの心の中にある信仰に応えてくださる方です。「信じれば何でもかなうよ」という意味ではありません。信仰は願い事をかなえるために神様を利用することではなく、生きておられる神様と共にいきることそのものです。
盲人たちはイエス様が「主(神様)」であり、「救い主」であると信じていました。そして、そのとおりであるイエス様が、そのとおりにお応えになったのです。
 
2.経験に縛られる人
 次に悪霊にとりつかれた人をイエス様が癒します。これを見た群衆は「こんなことは今までイスラエルで起こったためしがない」と言います(32~33節)。彼らは称賛したというよりも、ただ単純に驚きました。ここに先の盲人たちとの対照的な姿があります。群衆は「見たことない」、「前例がない」から信じていませんでした。一方、盲人たちはイエス様が主なのだから「できる」と信じました。
 経験で考えれば誰も初めから神様を信じません。しかし、主を信じるとき、それが本当であると初めて経験するのです。

3.嫉妬に支配される人
 当時の熱心な信仰グループだったファリサイ派の人々は、これらの様子を見て嫉妬し、誹謗中傷しました(34節)。神様の好意や、人々からの尊敬をイエス様に奪われると感じたのでしょう。しかし、イエス様はまさにファリサイ派の人々も含め、私たち皆への愛のゆえに来られたのです。この決して変わらず奪われない愛に土台を置く時に、私たちは嫉妬からも解放されます(癒されます)。

<思い巡らし>
イエス様をどう信じていますか。経験や嫉妬に縛られていませんか。