新しい命

マタイによる福音書9章18~26節 

二人の女性が「いやし」のスケールを超えた救いを経験します。

1.復活の命を与えるイエス様
 イエス様のもとに、ある指導者が来て、自分の娘が死んでしまったので、来て手を置いて生き返らせてほしいと願います(18節)。この出来事は、今日読んでいるマタイの福音書以外にも、マルコとルカの福音書それぞれでも記されています。ただ、このマタイ福音書だけは、この出来事を非常に簡潔に、詳細をすべて省略して書いています。その省略の結果、浮かび上がってくるメッセージは「イエス様はこの地上の歩みの死の先に、確かに復活の命を与えることができる」という救いの本質に迫るものです。
 指導者の家に着くと、弔問に集まっていた人々にイエス様は言います。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ(24節)」 人々は皆、少女が死んでいるのを知っていたので、この発言をあざ笑いました。しかし、イエス様は少女の手を取り、彼女は生き返ったのです(25節)。
 イエス様は「死んだのではない。眠っているのだ」と言いました。これこそ、まさにイエス様の与える復活の命のことです。私たちは皆、等しく必ずいつか地上の旅路を終えて息をひきとります。しかし、それは終わりではなく、永遠の命に目を覚ます眠りなのです(第一コリント15章)。信じて命を得るものとなりましょう。
 
2.新しい命
 この復活の出来事の途中に、もう一つ驚くべき奇跡の出来事が記されています。12年間にわたり出血に苦しんでいた女性が、イエス様の「服に触れさえすれば治してもらえる」と信じて「服の房」に触れ、癒されたのです(20~22節)。
彼女の苦しみは想像を絶するものです。しかも、体の苦しみに加え、当時は汚れた者としても見られるという、まったく不本意な苦しみを負っていました。しかし、イエス様に触れた時、そのすべてから解放されました。
彼女はいわば「型」です。聖書は確かに私たちが自分でどうしようもできない罪の問題を明らかにします。しかし、それで終わりではなく、イエス様に触れる(信じる)時に、私たちは完全な赦しを受け取って、新しい歩みを始めるのです。

<思い巡らし>
この地上の旅路でも、その先にもイエス様は新しい命を与えます