救い主を待ち望み

ルカによる福音書2章21~38節 

神様の人類救済計画は、ここから始まります。

1.定められた清めの時(22~24節)
 律法で定められている「主のための聖別」を受けるために、ヨセフとマリアは、イエス様を連れて、エルサレムの神殿を訪れます。イエス様は、主の律法に従い、主の聖別を受けます。このユダヤ教では当たり前に誰もが行うことが、神様の視点では、人類救済のスタートの出来事となるのです。人類救済は清められる所から始まっていることを、私たちは心に留めておかなければなりません。イエス様は、一番貧しい者となって、清めの時を迎え、神の子でありながら、人となって主のための聖別を受け、私たちに救いの根本をお示しになったのです。
2.救い主を待ち望んだシメオン(25~28節)
 シメオンという一人の老人がいました。彼はイスラエルが救い主によって慰めを受けることをずっと待ち望んでいました。無名の老人シメオンですが、神様の視点では、救い主を待ち望み、神様に祈り求める彼の姿は特別です。彼の想いは神様の目に留まり、彼の上には聖霊なる神様が留まっていました。信仰は深さが大切と言いますが、救い主を待ち望み続けるその時の長さは、深さに劣らず、素晴らしいものです。この地で命がある限り、神様を求め続ける、また愛し続ける、また従い続ける、また祈り続ける、「続けること」の大切さをシメオンは教えてくれています。神様は、シメオンに救い主と出会う機会を与えてくださいます。
3.シメオンの賛歌(29~32節と34~35節)
 シメオンは救い主イエス様のもとに、聖霊なる神様によって引き寄せられていきます。そしてイエス様を胸に抱き、神様に賛美をささげます。シメオンの祝福はそこで終わりません。神様は、シメオンに、人類救済の全貌を知らせました。マリアへの言葉は、ユダヤ人だけでなく、救いの光は異邦人をも照らしていること、そして、イエス様が十字架におかかりになるのを見ることになる、マリアの悲しみを告げるのです。
 人類救済の真っ只中にいる私たちですが、命の限り、神様の救いを信じ続けて生きることは、神様の祝福の中に生かされていることになります。一日一日を、神様への感謝と喜びをもって生かされていきましょう。神様はいつも、あなたと共に生きています。シメオンと同じように。