隠れた事を見る父

マタイによる福音書6章1~6節 

イエス様の山の上で弟子たちに語られたメッセージ。今日は「善行」について。

日本キリスト教団勝田教会さんの投稿 2020年9月26日土曜日

1.報いは誰から?
 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる(1節)」とイエス様は教えます。「報い」というと、復讐的な悪いニュアンスで使われることが多い言葉ですが、ここでは行いへの良い意味でのご褒美のような意味です。
 もし、善い行いを人に見せるためにするなら、人の評価や称賛がその報いのすべてでしょう。神様が与えようと思っていることを(求めてもいないので)受け取ることはないでしょう。
 誰のために生きているのか?誰の目を一番気にかけているのか?ということが問われています。そもそもここで語られている聖書の「善行」という言葉は、「神様の義を行う」という意味です。「人のため」が一番の徳だと多くの人は思うでしょう。しかし、まず神様のために生きる時にこそ、人のためも真の意味を持ちます。

2.左の手も知らない
 「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない(3節)」とイエス様は言われます。人にどころか、自分にも気づかれるなと語られているのです。「善いことしてる私は立派」という思いも、「あまりでしゃばると格好つけてると思われる?」という考えも、結局のところ自分への人の評価に心があります。
 人の評価は関係なく、神様の私たちへの評価は、イエス様のゆえにいつも満点ですから、自分で意識せず、ただ素直にイエス様のように与えるものになりましょう。

3.隠れて祈る
 また、祈るときも一人になって「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい(6節)」と教えられています。神様が隠れているという話ではなく、自分の信仰の熱心さを人に見せびらかさず、むしろ神様との一対一の祈りの関係を築くようにと言われているのです。

<思い巡らし>
誰の目を意識していますか 神様と一対一の祈りの時はありますか