実を結ぶ悔い改め

マタイによる福音書3章1~12節 

イエス様が活動を始める一足先に、洗礼者ヨハネが人々の前にあらわれます。

日本キリスト教団勝田教会さんの投稿 2020年5月9日土曜日

1.荒れ野で叫ぶ者の声

洗礼者ヨハネは救い主であるイエス様を迎える準備をするための、「荒れ野で叫ぶ者の声(3節)」でした。迎える準備と言っても食事や会場のような物質的な話ではありません。人々の心がイエス様を主として迎える用意ができるように、「悔い改めよ。天の国は近づいた(2節)」と人々に告げて、洗礼を授けていたのです。

 

2.「悔い改める」とは

 聖書のキーワードの一つである「悔い改める」とは、単なる「悪事の反省」ではありません。言葉のもとの意味は「向きを変える」です。つまり、これまで神様には向き合わないで、自分を主人として生きてきた生き方を止めて、これからは神様に従う生き方をしていくように方向転換することです。

 悔い改めるという言葉を誤解すると、「いつも謝ってばかりで惨めな暗い生き方かな」と思う人もいます。しかし、現実はまったく逆です。神様と向き合って、人は初めて誰にも勝手に評価されない、本当の人生の価値に気づくものです。

 

3.実を結ぶ悔い改め

 ユダヤの指導者だったサドカイ派やファリサイ派の人々に、洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しい言葉を投げかけます。

 では、良い実とは何でしょうか。サドカイ派のように社会的に地位があることは実ではありません。ファリサイ派のように、「良いこと」をするのも実ではありません。また、彼らは自分たちユダヤの民こそ、天の国にふさわしい神の民だと思っていましたが、それすらヨハネは否定しました。

 この世の地位も、善行も、血筋も神様の前では何の意味も持ちません。ただ、自分中心の生き方から、神様中心の生き方に向きを変えて生きる時に、救いの実がなります。そして、その生き方はやがて、あなたの内にイエス様のような性質の豊かな実を結ぶでしょう。大切なのは何をしたかではなく、何者になったのかです。

 

<思い巡らし>

①悔い改めとは何でしょう ②自分は実を結んでいると感じますか。