誰の王か

ヨハネによる福音書19章1~16節

新年も御言葉に耳を傾け、イエス様を「王」として歩み始めましょう!

1.拒まれる王

ユダヤ総督だったローマ人のピラトは、イエス様に罪がないことを知り、釈放しようとします。しかし、ピラトが「あなたたちの王だ」とイエス様を連れ出すと、ユダヤ人指導者たちは「殺せ。殺せ。十字架につけろ」と叫びました(14-15節)。

人となられた神であるイエス様は、いわば王としてご自分の民のもとに来たのですが、その民であるユダヤの指導者たちは、イエス様を受け入れることを拒みました。このユダヤの指導者たちの姿は誰の内にもある、神様を認めようとしない罪を代表しています。しかし、同時にイエス様は私たちが迎えるのを忍耐強く待っておられます。今年は罪の自分を捨て、イエス様を王として迎えて歩み始めましょう。

2.誰の王か?

 ピラトを利用してイエス様を死刑にするために、指導者たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言いました(15節)。普段は「神様こそ王だ」と信心深さを装い、忌み嫌っている皇帝を、自分の都合でここでは王と呼んでいる醜い姿です。しかし、これもまた誰の心の内にもある自己中心や偶像礼拝(人や自分を神様のようにすること)の罪の問題を表しています。

 イエスは誰の王か?と問われています。私たち教会こそ、人でも自分でもなく、イエス様を「王」と告白して歩んでいきましょう。

3.十字架の王

 指導者たちはピラトを利用し、ピラトは「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言い、何もかもうやむやのまま、誰も責任をとらずにイエス様は十字架にかけられました(16節)。イエス様の十字架はまさに、誰もとることのない罪の責任を、もっとも関係のない正しい方が代わりにとったものです。十字架の王こそ、私たちのイエス様です。その方に仕える者は皆、自分の十字架(使命)を負って、赦しと愛の内に歩むべきです。十字架の王の後に続いて歩み出しましょう。

<思い巡らし> 

イエス様を「王」として一年を始めていきましょう!