すべて知っていて

ヨハネによる福音書18章1~11節   

十字架の前夜、ユダが兵士たちを連れてイエス様を捕まえにきました。イエス様は「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ(4節)」ながら、それを迎えました。

1.人の闇と主の光

すべてを知っていたということは、何を意味するでしょうか。第一にそれはイエス様が全知全能の主であるということです。正しく、罪のない、聖なる方であるということです。

ユダと兵士たちは夜の闇に紛れて、武器と明かりを持って現れました。闇の中を来たのは、自分たちが正しくないことを知っていたからでしょう。一方のイエス様は堂々と自ら名乗ります。その姿は捕まえに来た人々を圧倒し、彼らは後ずさって倒れました(6節)。主の前に立つ時、罪人である小さな自分の姿を悟らされます。

2.人の弱さを受け入れて

第二にイエス様は弟子たちの裏切りをも知っていて受け入れられたことが分かります。ユダのみならず、この後すべての弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ出します。しかし、イエス様は彼らが逃げることを赦しました(8〜9節)。

ペトロは剣を抜いて兵士に斬りつけますが、それをイエス様は咎めます(10節)。そして、逃げてしまうペトロもイエス様は赦します。

イエス様の十字架は、私たちの罪と弱さを担って赦すものでした。

3.主を愛するものとして

これから起こる恐ろしい現実を知りながら、イエス様は「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか(11節)」と言って、主の御心に従います。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(マタイ12:30)」という言葉のとおり、神を愛するという姿を究極的に体現します。

<思いめぐらしてみましょう>

 イエス様の姿を思いめぐらし、自分の姿も見つめてみましょう