愛する息子なら
マルコによる福音書12篇1~12節
イエス様はご自分に敵意を向ける祭司長たちの罪の姿を、「ぶどう園と農夫」のたとえ話を用いて示します。「ぶどう園の主人」は神様で、「ぶどう園」は神様の民、管理を任された「農夫」は祭司長たちリーダーです。たとえの中で、農夫たちは収穫を取りに来た主人の使いや、「愛する息子(イエス様のこと)」も殺してしまいます。ひどい結末の話ですが、この中にこそ、主の驚異の愛が表されています。
1.大切なぶどう園
まず、ぶどう園を丁寧に、大切にするぶどう園の主人の姿には、神様の私たちへの深い愛の眼差しが描かれています。主人はぶどう園のまわりに「垣を巡らし、絞り場を掘り、見張りのやぐらを立て(1節)」最後の仕上げに農夫たちに管理を任せました。大事な子どもを見守るような、大切な宝物を扱うような、そんな眼差しで主は私たちを見ておられるのです。あなたを見る、愛の眼差しに気づきましょう。
2.愛する息子なら
農夫たちが最初の使いを傷つけた時点で、これがたとえ話でなければ彼らは即座に裁かれるべきです。ところが、主人は農夫たちにも異常なほど愛を注ぐのです。つまり、忍耐強く何度も使いを送り、最後には驚くことに「愛する息子なら」と言って息子を送るのです。主の愛は、人の目にはゆるされない者にも注がれます。「愛は忍耐強い(Ⅰコリ13:7)」と言う通り、主は逆らうものに忍耐をもって接し、赦そうとされるのです。農夫もまた私たちの姿です。主がすぐに私たちを裁かれないのは、私たちが正しいからでなく、驚くべき愛で立ち返るのを待っているのです。
3.不思議なこと
最後に、たとえ話の農夫たちは殺され、ぶどう園は「ほかの人たち」に渡されます。主は愛の方ですが、正しい方でもありますから、罪をあいまいにして裁かないということはありません。当然の裁きだと感じますが、現実の祭司長たちにはさらに赦しのチャンスが与えられました。イエス様はご自分を十字架にかけた祭司長のためにも、「父よ、彼らをお赦しください(ルカ23:34)」と祈りました。これもまた常軌を逸した愛です。悔い改めて、イエス様の赦しを受け取りましょう。
<思い巡らしてみましょう>
主の私たちへの愛の眼差し、忍耐、そして十字架の赦しに気づこう