私の王よ!

詩編145篇1-9節  

 

 「祈り」をテーマに今年度は歩んできました。その始まりがそうであったように、終わりとなる今日も「賛美の祈り」の詩編に耳を傾けましょう

1.わたしの王よ!

 この詩編145篇の最初には「賛美。ダビデの詩」と書かれています。賛美の祈りこそ、祈りの真髄です。祈りとは独り言でも、オカルトでもなく、確かにおられる神様の前に進み出て、向き合い、共に過ごすことそのものだからです。主の前に立つとき、私たちは聖なる畏れに打たれます。その畏れこそ賛美の源です。いつも主と向き合って生き、賛美をささげましょう。

 ダビデは王様でした。しかし、彼は高らかに宣言します。「わたしの王、神よ、あなたをあがめ、世々限りなく御名をたたえます(1節)」私たちも、主に向かって「わたしの王よ」と叫び、喜びの礼拝をささげましょう。

2.驚くべき御業

 続く3~7節では、(ヘブライ語の)アルファベットで韻を踏みつつ、神様の「御業」がほめたたえられています。私たちの世界には驚きが満ちています。自然の内にも、日常生活の中にも、他の人々との関係の中でも、立ち止まってよく見てみれば、神様の御業(導きや計画)が確かにあります。そして、何よりも驚くべきは、やはり聖書に記されたイエス・キリストの「救いの御業(7節)」です。

 主の大きな御業に目を留め、喜びの祈りを歌いましょう。

3.満ちあふれる愛

 さらに、神様の行動だけではなく、人柄(?)と言いますか、ご性質にも心を寄せてみましょう。ダビデは「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます(8節)」と告白しました。今の私たちは、イエス様を見ることを通しても、特にその愛の性質を知ることができます。

 神様は私たちを造られ、一人一人を価値ある存在として、愛しています。それは、私たちが自らの罪のゆえに滅びることがないようにと、自ら十字架で私たちの代わりに罪の罰を受けられるほどです。あなたは愛されています。喜び祈りましょう。

<思い巡らしてみましょう>

 私の王と呼びかけよう。主の御業に目を留めよう。愛を受け取ろう