礼拝と祈り
詩編33篇1~22節
この詩編33篇は、ユダヤの人々にとっては、朝の礼拝の始まりの祈りとして用いられてきました。
1.礼拝の祈り
イエス様と共に生きる信仰生活には、個人的な面もあれば、「神様の民」としての共同体的な面もあります。たとえば、祈りも個人的に心の中で祈ったり、家で静まって神様と向き合う時間をとったりするのは大切ですが、同じように、教会やクリスチャンの集まりで、一緒に主の前に立ち、祈ることも大切です。
教会で毎週日曜日に行われる礼拝は、いわば皆で一緒に神様の御前に進み出て祈る時だと言えます。
今日の詩編33篇の祈りも、まさに礼拝の始まりにふさわしく、「共に喜び歌うこと(1節)」をうながすような祈りの言葉が凝縮されています。
2.主を畏れるということ
「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく(8節)」
祈りとは、そして礼拝とは、「主を正しく畏れる」ことだと言うことができます。それは、「罰(バチ)」を当てる神様を怖がるような恐れではなく、ただ言葉のみでこの世界のすべてを造り、すべてのことを計らう権威を持った圧倒的な方への畏敬の念です。その「畏れるべき方」の前に立ち、あるいはひれ伏すことこそ、祈りであり、礼拝そのものなのです。
3.主のまなざしを感じること
「見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に(18節)」これは、私たちの祈りを聞き、礼拝を受け取ってくださる神様のまなざしです。礼拝とは、畏れるべき方がそこにおられ、また集う者たちに語りかけ、関わってくださる時でもあるのです。
主は「人の心(15節)」をも見る方ですから、それはやはり恐れをも感じるでしょう。心の中まで見透かされて、完全にきよい人など一人もいません。しかし、主を正しく畏れて御前に進み出る人には、主の愛(慈しみ)に満ちた赦しがあります。
<思い巡らしてみましょう>
日曜日は礼拝に参加しましょう。すべての人が招かれています!