聞くべき相手は

マルコによる福音書9章2~13節  

  イエス様が三人の使徒たちの前で、これまでになくハッキリと、ご自身の神様としての栄光

 の姿を現します。この出来事は、私たちの祈りの生活と深く関わります。

  1.畏れにうたれる

 高い山の上で、イエス様の姿が変わりました。その服は「この世」のものではない輝きと白さを見せました(2~3節)。聖なる(罪のない)主の姿です。

 そこに、二人の旧約聖書を代表する人物が現れます。預言者を代表するエリヤと、律法を代表するモーセです。二人と語り合うイエス様の姿は、あまりに圧倒的で恐るべきものでした。使徒ペトロは恐れのあまり、見当違いな発言をしてしまいます(4~5節)。弟子たちは「非常に恐れていた(6節)」と言います。

 それはまさに、天地の創造主である神様と出会ったものの、「畏れ」に満たされる経験でした。私たちの祈りも、主の前に進み出て、会い見えるものです。

2.聞くべき相手は

 恐れる弟子たちを「雲」が覆い、その中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け(7節)」

 雲は旧約聖書の時代から、主がそこにおられることの象徴でした。そこで、主はこのイエス・キリストこそ、私たちの探し求めている、そして本当に耳を傾けて聞くべき相手であることを告げています。「祈り」はこちらからの要求を神様に投げかけることだけではありません。その本質は主に出会い、特に「聞く」ことでもあります。聖書の言葉、とりわけイエス様に耳を傾けましょう。

3.ただイエスだけが

 ふいに全て終わり、山の上には弟子たちと「ただイエスだけが」いました(8節)。それは、なんの変哲もない、いつものイエス様と弟子たちとがいる光景です。しかし、使徒たち三人にとっては、これまでとは全く違います。一緒にいるイエス様が何者かを知ったからです。私たちの信仰生活は、主と共にいるものです。しかし、何の気なしに祈ったり、礼拝したりする時、イエス様の真の姿を忘れてしまいがちです。主であるイエス様がいると信じて祈り、礼拝し、生きるものとなりましょう。

<思い巡らしてみましょう>

この山の上のような祈りの世界を持ちましょう。主が共にいます。