それほど言うなら
マルコによる福音書7章24~30節
外国人の土地でも噂を聞きつけイエス様のもとに来る人物がいました。
1.それほど言うなら
イエス様に会いに来たのは外国人(ギリシア人)の女性でした。幼い娘が悪霊に苦しめられているというので、助けを乞いにきたのです。ところが、イエス様はいつになく冷たくその願いを退けます。今はまだイスラエルの民のための働きをしている最中だから、異邦人であるこの女性の願いを聞くことはできないというのです(27節)。しかし、女性はあきらめませんでした。軽蔑的ともいえる言葉で断るイエス様に「主よ、しかし、食卓の下の子犬(異邦人のこと)も、子供(イスラエルの民)のパン屑はいただきます(28節)」となお願います。そこでイエス様は「それほど言うなら、よろしい(29節)」と言って、娘を癒すのでした。ここには、「願い」の祈りの習うべき姿がよく表されています。この外国人の女性は「聞いてもらえればラッキー」という思いではなく、この方なら必ず治してくださるのだから、と本当に信じて、心からの願いをイエス様にぶつけました。それほど言うなら、というほどの真剣さにイエス様は同じく真剣に応えられました。
2.「主」イエスと向き合う
もう一つ大切なことは、彼女がイエス様を本物の、そして今生きておられる主(神様)だと信じてイエス様に願ったことです。この女性はイエス様の前に現れたその初めから「ひれ伏し(25節)」ました。この姿勢は当時の人々が神様の前でする姿です。さらにその一方で、一歩もひかずにイエス様と語り合って願いを聞いてもらいました。大事なのは、彼女がイエス様と一人と一人として、向き合っていることです。「願い」の祈りは得てして、願いを投げつけるばかりのものとなりがちです。しかし、本当の祈りは人格的な交わりなのです。
3.人生を回復するとりなし
最後に、この願いが幼い娘の人生を回復する「とりなし」であったことを覚えましょう。誰かのために真実に愛をもって祈るとき、主は人生を回復するような素晴らしい御業をもって応えてくださいます。あなたも今日から祈り始めましょう。
<思い巡らしてみましょう>
どのように「願い」の祈りをしていますか。主と向き合ってますか