神の力があふれる
マルコによる福音書 6章45~56節
イエス様の奇跡が続きます。神様の力があふれ出る中での、「弟子」や「群衆」とのやり取りにも注目していきましょう。
1.祈りによって
五千人に食べ物を与えるという奇跡を終えてから、イエス様は弟子たちを先に舟に乗せて行かせました。それは、弟子たちを休ませてあげようとする優しさであり、またこの後の出来事を通して信仰を訓練するためでもありました。一方で、イエス様自身は一人で「祈るために山へ行かれた(46節)」とあります。イエス様は朝に夕に、できる限り祈るために時間を割かれました。主であるイエス様がそのようにされていることは、なおさら私たちにとって「祈り」は不可欠であり、最優先事項であることを教えてくれます。祈りは信仰生活の命であり、また主の力が私たちの人生に働かれるという最大の力です。
2.そばを通り過ぎる主
弟子たちは逆風で舟を漕ぎ悩んでいました。そこにイエス様が湖上を歩いて近づきます。しかし、なぜかイエス様は「そばを通り過ぎようとされた(48節)」のです。実は、主は旧約聖書の時代から「そばを通り過ぎる」方なのです(参照:列王記上19:11)。とはいえ、弟子たちはイエス様だと気づく信仰もなく、幽霊を見たと思って叫び声をあげます。そんな彼らにイエス様は優しく「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない(50節)」と声をかけて、彼らを助けました。ほんの数刻前に五千人に食事を配った奇跡があっても、弟子たちはまだ「主なる神様」と信じるまでには至りませんでした。
3.小さな信仰にも
岸についた一行を群衆は目ざとく見つけて、地域一体から病人が集められてきました。彼らは主を信じてというよりは、ただ自分の病の癒しを求めて来たのですが、その小さな信仰にもイエス様はお応えになりました。弟子も、群衆、信仰の立派さによってではなく、ただイエス様の愛によって救いを受け取りました。
<思い巡らしてみましょう>
祈りこそ信仰生活です。祈っていますか。主の愛に応答しましょう。