杖で岩を二度打つ
民数記20章1~13節
イスラエルの民が荒野を放浪する40年を終えて、再び約束の地を目指します。
1.水がない
長い放浪のきっかけとなった事件が起きたカデシュという場所にイスラエルの民は再び来ました。いよいよ、約束の土地に入る時が来たのです。ところが、この期に及んで民は水がないということでモーセとアロンを責めたてます(2~5節)。40年前にエジプトを脱出した彼らの前の世代がしたことと全く同じです(出エジプト17章)。荒野の40年を経て、神の民として成長してきたはずですが、やはり主を信頼しきれない人の罪の本質は変わりません。
2.杖で岩を二度打つ
しかし、神様も変わらず憐れみをもって、彼らの不信仰を責めずにすぐに水を民に与えようとします。民の弱さも罪も変わらず、神様の愛も憐れみ深さも変わりません。そんな中で一人だけ今までと違ったのがモーセでした。
モーセは主が「岩に向かって、水を出せと命じなさい(8節)」と言われたにも関わらず、イスラエルの民に怒りをぶつけ、「杖で岩を二度打つ」という行動を取ってしまいました。岩に命じて水が出たならば、人々は神様の奇跡を見て主を畏れたことでしょう。ところが、モーセはあたかも自分が水を出してやるとばかりに杖をふるってしまったのでした。謙遜と忍耐の人モーセの最大の失敗でした。
3.主が聖なること
主はモーセの行動をとがめました。そして、モーセは約束の土地に入ることはできないと言われてしまいます。これまでの彼の功績や忍耐の姿を考えると、たった一度の失敗にあまりに大きなペナルティに感じます。しかし、このことを通して神様は「聖なること」を人々に(そして私たちに)示されました(13節)。主は聖なる方であり、罪を決して放置できずに裁かれる方です。不信仰な民は赦され、最も忠実なモーセが裁かれて主の聖なることを知らされる。どこか主イエスの十字架を連想します。かえってモーセと主なる神様の信頼関係の深さが感じられます。
<思い巡らしてみましょう>
主は聖なる方で罪を見逃しません。同時に愛の方で必ず赦されます