兄弟たちを力づけなさい
ルカによる福音書22章31~34節
主は裏切った罪びとを再度召して、主イエスの使命を委託されます。
1.シモンという呼びかけと警告・・・信仰が無くなる
主イエスは弟子となる前のシモンとよびかけて、弟子として招かれた時のお言葉を思い起こさせます。弟子たち全員への呼びかけでもあるのです。その後、サタンが弟子たちを誘惑すると警告し、「信仰が無くならないように祈った」と主は告げます。信仰が無くなるとは「種まきの譬え」で、悪魔が来てみ言葉を奪い去るとあります。み言葉を失うことなのです。神との断絶。それは罪。弟子たちは罪を犯す。これが小麦のようにふるいにかけられた結果だといい、それは信仰の喪失が前提となっています。
2.「祈った」だから「立ち直る」
「祈り」とは「懇願、哀願」のこと。父なる神への哀願とは『罪を犯したものを赦して下さい。罪の咎をすべて私が十字架で負いますから』でありましょう。最後の晩餐の制定の言葉と同じです。「これはあなた方のために与えられる私の体」「これはあなた方のために流される私の血による契約である」
主イエスが罪を担ったから、立ち直るのです。立ち直るとは「悔い改める、戻る」ことで、み言葉を思い起こす事。60節以下にその実現があります。
3.委託の宣教命令
再度の派遣命令の恵みがここにあります。この宣教命令が「兄弟たちを力づけなさい」であり、実は人間をとる漁師のことです。「兄弟たち」とは弟子との制限はなく、今そこにいてみ言葉に耳を傾けている人々。「力づける」とは「固くする、強める」との意味で、福音を伝え、み言葉によって信仰を固くさせることです。これが弟子たちの使命です。
私たちも信仰を失うことがあるかもしれない。間違いをしたことに悩むかもしれない。ところが今日のみ言葉は「私はあなたの罪のために命を差し出した。だから、どんなことがあっても立ち上がり生きることができる」との勧告です。主イエスは罪を犯さない人ではなく、弱く、罪を犯したものを回復して、使命を委託され、教会は建てられているのです。
<思いめぐらしてみましょう>
十字架は誰のため?み言葉に満たされるように祈りましょう。