生きても死んでも

申命記31章14~23節

モーセと後継者ヨシュアが主なる神様の前に呼ばれます。

1.生きても死んでも

主はヨシュアを連れて御前に来るようにとモーセに告げるにあたり、さらりと強烈なことを言います。「あなたの死ぬ日は近づいた(14節)」だからヨシュアを後継者として任ずるから連れて来いというのです。

死なない人はいません。ですから人間は誰でも必ず、そして等しく死を迎えます。しかし、その日が近づいたと宣告されるのは、特に生と死に最も確実な権威を持っている神様からそれを受けるのは大変なことです。相手がモーセだからこそ、主はハッキリと告げることができたのかもしれません。モーセが主を信頼していて、死の先にも命を与えることができる方であると確信していたからです。

むしろ、モーセはこの時、主の深い愛と憐みを感じたことでしょう。なぜなら、彼がこの地上を去った後に、イスラエルの民は主を捨てて罪を犯すからです。約束の土地を踏むことはできないけれども、民の堕落を見ることなく有終の美を飾ることを許されたことは、モーセへの主の愛に満ちた計らいであったでしょう。生きても死んでも、どちらも幸い、その平和が主に従うものには与えられるのです。

 

2.人の心は

神様の愛と信頼に満ちたモーセの心とは裏腹に、イスラエルの民は約束の土地に入るや否や神様から心を離していきます。与えられる約束の土地の豊かさに「満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え(20節)」るようになるのです。主はそんな彼らの心の内をも知っています(21節)。いつの時代にも人の内にある神様から離れて高慢になる罪の心を主はご存知です(参照ヨハネ2:25)。

 

3.それでも与えられる福音

それでも主は人の罪を赦す福音を私たちに下さっています。それはイエス様が十字架で罪を赦し、天国に導きいれて下さり、いつも共にいてくださるという約束です。主は私たちの内に罪があることをよく知っています。それでもなお、信仰によって救いを受け取ることができます。主イエスを信じて福音を受け取りましょう。

 

<思い巡らしてみましょう>

主を信じる者には生きても死んでも幸いという平安が与えられます