伝統的プロテスタント信仰に根づく教会です

 ヨハネの福音書8章12節~20節                            

 今年度の主題聖句はヨハネ15章5節「わたしはぶどうの木・・・」今日は、「ぶどうの木」に注目し、「光の道を歩むこと」を改めて覚えたいと思います。

1.「誰も裁かない」(15節)

 仮庵の祭りの行われる中で、姦淫の女をめぐる騒動があったことが今日の箇所の前に書かれています。その中でイエス様がお答えになったこと「わたしも罪に定めない」の結論がこの箇所です。ここで使われる「裁く」という言葉には「分ける」という意味があります。「私は誰も罪に分けない」、言い方を変えれば「私は赦す」という宣言とも言えます。姦淫の女に言った宣言は、神様を知りながらも、悪い方へと流されてしまう私たちに対しての赦しの宣言でもあるのです。これこそが十字架にお架かりになられたイエス様の真理であり、父なる神の御心であるのです。

2.「世の光」であるイエス様(12節)

 赦しの宣言をなさったイエス様は、その言葉に続いて、「わたしは世の光である。」とご自分のことを紹介します。仮庵の祭りは、光を灯す祭りの様子から「光の祭り」と言われていました。神殿に強い光が灯され、周りに光が放たれる様子は、私たちが神様の御栄光を映す姿を思わせます。光は、行く道を照らし、周囲を明るくします。迷うことのないように周囲を明らかにします。しかし、暗闇に灯す光は、隠されていたものを明るみに出し、すべてを明らかにします。

イエス様が神の子であることを知る人は、救いをもたらす命の光となり、世に属する人は、隠されたことを明るみに出される裁きの光となります。イエス様を通して、同じ光でも全く違う光となるのです。

3.真実に生きる(16~18節)

 「真実に生きる」それはイエス様が神の子であることを知ることです。イエス様は「誰も裁かない」と言われました。真実に生きるなら、「裁かれない」ことがわかります。イエス様は世(暗闇)を裁くために来たのではなく、世(暗闇)が救われるために来たからです。(3:16)

 「ぶどうの木」それは神様を表わしています。「木を知る」、「神様を知る」と

「木を知らない」では、私たちの歩みは全く変わります。まずは「木を見て木を知る」こと「神様を見て、神様を知る」ところからスタートです。