祝福を運ぶ信仰

民数記14章17~35節

いつまでも信頼しないイスラエルの民への裁きを主が宣言すると、モーセはすぐに民の赦しのためにとりなしの祈りをします。主はそれを受け、赦すと約束します。

1.人は自分が選んだものを受け取る

 確かにモーセのとりなしのおかげで、神様は民を赦し、滅ぼすことをやめますが、その後に二つの条件が「しかし」という言葉をもって続きます。

 一つ目は「しかし、…わたしの声に聞き従わなかった者はだれ一人として、わたしが彼らの先祖に誓った土地を見ることはない(22~23節)」という、厳しい言葉です。さらに、彼らが「荒れ野で死ぬ方がよほどましだった(14:2)」と憎まれ口を叩いたとおり、「荒れ野に倒れるであろう(29節)」と言われました。

 主が与えるという約束を信頼せず、自ら勝手な限界や悲観を設定して神様を侮る時、わたしたちは自分で選んだものをただ受け取るばかりの惨めさを経験します。

 

2.主の祝福を選び取る信仰

 一方で、少数ながら主に従おうとしてきた者たちへも「しかし」があります。「しかし、わたしの僕カレブは、別の思いを持ち、わたしに従い通したので、わたしは彼が見てきた土地に連れて行く。(24節)」

神様が与えると約束してくださっている祝福は、わたしたちの思いをはるかに超える豊かなものです。自分の望んだものが適うことは祝福でも何でもありません。そうではなく、主の御心がかなうことを求めて従う人は、主が用意されている、もっとずっと豊かな祝福を受け取るのです。

 

3.万事が益となる不思議

 イスラエルの民は、不信仰の結果として40年にわたって荒れ野を放浪することになります(33~34節)。一見すれば、罪の罰のように見えますが、神様は先祖の罪の罰を子孫に与えるようなことは決してなさいません。実は、この40年間の旅を通して、イスラエルの民は一人前の存在として育てられていきます。何よりも、その時間を通して神様との素晴らしい信頼関係が築かれていくのです。

 信仰はマイナスをもプラスに、万事を益とする主の御業を受け取る鍵なのです。

 

<思い巡らしてみましょう>

 神様に期待を持っていますか。主の思いをまず求めていますか。