この山に登れ
申命記 32章48-52節、34章1節―8 節
申命記はモーセがヨルダン川を渡る民に再び神のご命令と約束を語る書です。今日のみ言葉は語り終えた後の物語です。モーセは約束の地に入れないと神は宣告し、ネボ山に登って約束の地を見渡せと命じます。何故でしょうか。唯一の神を愛せよと命令された神こそが、イスラエルを愛しぬく神であることを知らせるためです。
1.山頂への歩みの中で・・・過去と新しい歩み
死を前にした人間はおそらく自分の人生を振り返ることでしょう。ネボ山までの道のりで彼は何を思ったのでしょうか。レビ族に生まれながら、エジプトのファラオの妹の息子として育ち、やがて、ユダヤ人を虐待するエジプト人を殺したにもかかわらず、ユダヤ人から拒まれました。殺人者としてエジプトから逃亡し、そしてミデアンの祭司の娘と結婚し、羊飼いとして年を重ねます。平穏な日々。でも彼の心には「自分は何者か」という課題があったのです。
その課題は主の召命によって解決します。「モーセは神のもの」というアイデンティティを得たのです。殺人者であり、言葉に障害を持つ彼がイスラエルを導くものとされたのです。約束の地に向かう長い過酷な旅が始まります。民はその厳しさに神とモーセをののしり、それでもモーセはとりなし手として生き続けてきました。
2.山頂でみたもの
過去を思い出しつつ上ってきたその山頂で見たものは何でしょうか。約束の地です。それを目にしたとき、モーセは自分と民の犯した罪ゆえに約束の地に入れさせない厳しい神は、実は、民がどれほどまでに主を裏切ろうとも、次の世代を約束の地に連れて行ってくださる、約束を守り続ける深い愛の方であるという真実でした。だから申命記はモーセが何をしたかを語るのではなく、神が何をしてくださったかを語るのです。
3.モーセの死のあと
モーセは英雄であることを拒みます。だから彼の墓は不明。ただ荒れ野の砂の一粒となることを望みました。しかしその一粒は神の愛に満たされ、神の御手にある一粒です。モーセの死によって神のご計画は終わりません。イスラエルそして主イエスのお体である教会を通して、今も進められているのです。神の国への歩みは頑張ることも勇気もいらない。ただ主に向かって「私は何者ですか」と祈るものでよいのです。そして十字架の直下に立つあなたのすべきことが示されるでしょう。
≪思いめぐらしてみましょう≫
「ネボ山」はあなたにとってどこでしょう。