たとえ監禁されても

エレミヤ書37章11~21節  牧師 綿引久美子

ユダの国最後の王ゼデキヤの時代、この混乱の中にあっても、変わらずに主のことばを伝え続けるエレミヤの姿があります。

1.「主のことばを聞かない民」(2節)
エルサレム崩壊寸前のユダの国の王であるゼデキヤは、バビロンの王であるネブカドレツァルが選んだ王でした。ゼデキヤはバビロンの王の言いなりで,もはやエルサレムはバビロンの支配下に置かれていました。エジプトの援軍が来たことで、一時的にバビロン軍はエルサレムから撤退しましたが、エジプト軍がバビロンに押されて帰っていくと、バビロンはエルサレムを攻撃し、戦火をもって崩落します。エレミヤは神様からこのことをずっと語られていました。そして、ユダの王や役人そして国民にも言い続けてきたのです。しかし、エレミヤの言葉に耳を傾ける者はありませんでした。
自分に都合の良い未来を神様の御旨だと勝手に決めていたのです。神様の言葉を聴かないユダの国の人々、しかし、困ったことがあるとエレミヤに祈ってほしいと頼みに来る本当に身勝手な人の姿をここに見ることができます。

2.牢獄のエレミヤ(14~16節)
エレミヤは、ちょうどこの時、親戚から相続したアナトトの土地の手続きのことでエルサレムを離れます。すると、エレミヤがバビロンに通じる裏切り者のように、疑いをかけ当時牢獄として使用していた書記官ヨナタンの家の地下牢に入れられてしまいます。『それは違う』エレミヤの真実の言葉も聞き入れず、乱暴をして痛めつけエレミヤを牢に入れた役人たち。しかし、エレミヤは一貫して主からの言葉を曲げることはありません。ゼデキヤ王の家来たちは、自分たちに災いの未来を語り続けるエレミヤの存在が忌まわしくて仕方ありません。エレミヤは主のことばを語り続けたために、このような苦難に見舞われることになりました。神とこの世には仕えられません。

3. シンプルな神のことば(17節)
横柄な家来とは裏腹に、優柔不断なゼデキヤ王はひそかにエレミヤに尋ねます。エレミヤが真の神のことばを語ることを王は知っていました。しかし、だからと言って従うことはできず、自分の願望実現を御旨として、そのことがなるように祈り頼むのです。どっちも手のうちにしたい優柔不断さが現れています。
一方エレミヤは、主のことば一筋。周囲の状況がどうであっても、変わることなく主の言葉を語り続けます。投獄される身の上で、相手が王であってもです。神様のことばはシンプルでした。『この町にいるなら死ぬ。バビロンへ行けば生きる』『エルサレムは必ず崩壊する』。神様は、絶望的な状況の中でも、生きる道を備えてくださるお方です。そして、『主を信じて従えば、死から救われ生きるのです』

*自分の信仰は本当に神様に向かっているのか?信心ではないだろうか?
 自分の心と向き合う時間は大切です。