ある父と兄と弟
ルカによる福音書15章11~32節 牧師 鈴木光
イエス様が「放蕩息子」のたとえを話します。
ある人に兄と弟の二人息子がいました。弟が望むので財産を二人にわけてやると、弟は早速父を離れて外国に行き、放蕩の限りを尽くしました(悪い遊びに全部使った)。やがて財産を無くし、死にかけた弟は我に返って深く反省し、父のもとに戻って謝り、家で雇い人にしてもらえないかと願うことにしました(11~19節)。
1.憐れみ深いお父さん
ろくでもない弟息子の帰りを、しかし父親はなんとずっと待っていました。「まだ遠く離れていたのに」弟の姿を見つけ、ぼろぼろの様子を見て「憐れに思い」走って来て抱きしめて迎えました(20節)。自分を離れて勝手にひどい目にあった弟を怒るより、その姿を見てその苦しみを共感し、彼を迎えたのです。
神様と関係なく生きると、人は誰もが無価値な思いになり、心も行いも荒れていきます。実際は罪の奴隷であっても、それこそが自由だと錯覚します。それは人の勝手な生き方ですが、父なる神様は私たちがその元に帰りたいと思って悔い改めて戻る時、その苦しみをまず共に感じて迎えてくださる方なのです。
2.「子」とされた弟
「息子と呼ばれる資格はない(21節)」という弟の言葉を、父は認めずに三つのことを弟にしてやります(22節)。「いちばん良い服」が意味するのは、この家で最も重要な存在として彼を迎えたということです。「指輪」は印章付きのもので、もう一度財産を受け継ぐ(いわば天国を継ぐ)「子」として迎えるということ。そして、「履物」を「しもべ」は履かないのが当時の慣例でしたから、あくまでしもべではなく自分の子として迎えることを強調しています。あなたが神様と関係ない生き方をやめて、神様のもとに生きるのを望むなら、あなたは神様の子です。
3.一緒に喜べない兄
一方で家に帰って来た兄は弟を迎えての宴会の様子を聞いて怒りました。父親に自分には「子山羊一匹くれなかった」と訴えます(29節)。父は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と答え、一緒に弟の生還を喜んで欲しいと願います(31~32節)。父はすべてを既に兄に与えていましたが兄は何も求めてきませんでした。これもまた誰もがなってしまう私たちの姿です。神様は私たちをしもべとしてでなく、共に喜ぶ家族と思っています。
<思い巡らし>
憐れみ深い神様/神様の子とされる/しもべではなく子として