恐るべき勇士
エレミヤ書20章7~18節 牧師 綿引久美子
神様の言葉を取り次ぐ預言者ゆえの苦悩を、エレミヤは、祈りの中で神様に思いを打ち明けます。
1.エレミヤの人生の苦悩(18節)
エレミヤは、預言者として神様に従順でした。背信の行いを繰り返すイスラエルの民に対して、決して人の思いに立たず、神様の思いに立って、神様の真実を忠実に語った真の預言者でした。しかしその人生はあまりにも残酷で、苦悩と嘲りに満ちていました。エレミヤは、自分がこの地上に命を得たことさえも嘆くほどに、空しく、失望を感じ、痛ましい人生だと思っていました。『なぜ生涯を恥の中で終わらねばならないのか?』本来、最高の喜びであるはずの命の誕生が、死を待ち望む命の誕生であったことを思うと、イエス様の地上での生涯が頭をよぎります。
2.恐るべき勇士である神様(11~13節)
神様の言葉を取り次ぐゆえに、祭司に打たれ、迫害を受ける現状に生かされるエレミヤでした。しかし、彼は神様をほめたたえます。エレミヤには、神様の偉大なる御顔は確かに彼の瞳の内にあったのです。そしてその偉大な神様は、エレミヤの現状を知っていて、鬨の声と共に「恐るべき勇士」なり、正義を明らかにしてくださる、必ず審判があると思っていたのでしょう。しかしそれと同時に、エレミヤは、自分が伝えた神様の言葉が、真か偽りか確信を持つことはできませんでした。だから神様をほめたたえても、自分が命を与えられたことを喜ぶことはできなかったのです。イエス様の救いのない時代の、預言者の悲しみでしょう。苦悩の先に、神様の救いの見えないこの時代の悲しみがエレミヤを通して記されています。
3.からし種一粒をもある信仰(9節)
神様の言葉を取り次ぐことで起きたエレミヤに降りかかる苦難と恥辱の人生は、決して人にとって祝福を思うものではありません。信仰をもって生きる時、私たちも人生がばら色になるわけではないのです。思うようにいかないことも多く、時には信仰を失いそうになるほどの苦難に見舞われるかもしれません。しかし、私たちの中に芽吹いたからし種1粒ほどのささやかな信仰は、神様の真意を心に、骨の奥までしみ込ませて、神様の湧きあがる油に灯がともるのです。信仰の火がここにあるのです。私たちが、たとえ死の陰を歩んでいるときでさえも、この火は消えることはなく、燃え続けます。そして私たちが吹き消そうとしても、決して消えることはないのです。そして神様の言葉を忘れることはないのです。いつも心の中に響いているのです。
私たちの生きる理由は、神様にあるのです。信じることは、大きな力です。