陶工の手の中で
エレミヤ書18章1~17節 牧師 鈴木光
エレミヤ書の続きです。神様はエレミヤに陶器師の家に行くように命じます。
1.陶器師は好きに作る
陶器師はろくろを使って粘土を練り上げては壊し、また練り上げては壊し、を繰り返していました。その様子を見せてから、神様は次のようにエレミヤに言いました。「粘土が陶工の手の中にあるように、(神の民よ)お前たちはわたしの手の中にある(6節)」
神様はこの世界のすべてを造られた方ですから、本来は私たち小さな一人一人をどのように扱おうとも構わないはずです。陶器師が粘土を何度も練り上げては壊し、好きに作品を作り上げるようにしてよいのです。一方で私たちは自分中心に考えることが多いものです。あなたは神様と自分の関係をどう見ているでしょうか。
2.「言われた時」にどうするのか?
陶器師と粘土の関係性にたとえて、続けて神様は神の民に対して、その罪のゆえに滅ぼすことを予告しても、悔い改めるのなら赦して思いとどまることと、逆に幸いを与えようとしていても、聞き従わないならばそれを思いなおすことを話します(7~10節)。
ここで注目したいのは(新共同訳では強調されていませんが)、神様が災いや幸いの予告を「言った時」にどうするのか、ということが重要だということです。
聖書をとおして、あるいは祈りや礼拝の中で、神様に語りかけられたことに、実際にどう応えるのかが問われています。
3.かたくなな粘土とそれを惜しんで声をかける主
ところが、実際にエレミヤをはじめ多くの預言者をとおして神様が語りかけても、人々の応答は「無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから(12節)」というものでした。
続く箇所には、その結果やってくる恐ろしい滅びについて語られています。しかし、考えてみれば、これだけ予告しているのですからもう裁きを実行すれば良いはずです。それでもさらに声をかけ続け、人々が思い直して神様と向き合うことのように語り続けるのは、とてつもない神様の愛と忍耐強さの姿だと思います。
陶工の手の中にある粘土のたとえは、生殺与奪を握った主の姿だけではなく、むしろ、固くなった粘土が回復するように声をかけ続ける主の愛を見せているのです。
<思い巡らし>
神様と人の本来の関係は/言われた時に応えよう/主の手の中で