この時代に
ルカによる福音書9章37~45節 牧師 鈴木光
悪霊にとりつかれた子どもを助けてほしいと、一人の男性がイエス様に声をかけます。弟子たちでは癒すことができなかったと言います。
1.信仰のない、よこしまな時代
イエス様は応えます。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか(41節)」
時代というのは広い表現ですが、弟子たちもこの男性も、つまり「みんな」ということだと思います。結局のところ心から神様の力もイエス様も信じてはいないということ。また、「よこしまな」というのは、神様から離れて関係が壊れていることを言っています。
今の私たちも同じ「時代」に生きています。実際、多くの人が公然と神様を信じないと言い、信じているという者も本当に現実に神様が何でもできる主であることを信じ切ることのできないのが私たちの一つの姿です。
イエス様の悲痛な叫びにも似た「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」という言葉は、今の私たちにも直接語られています。
2.それでも向き合うイエス様
そんな私たちにイエス様は結局のところどうされるのでしょうか。イエス様は続けて「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか(41節)」
「共にいる」と訳されている言葉は、向き合うことを意味しています。イエス様は私たちに向き合うのがしんどいと言っているのではありません。そもそも私たちは神様から離れて背を向けているのですから、ずっと自分と向き合う気のないもの(私たち)をいつまであきらめずに向き合い続ければいいのかという切ない言葉です。
でも、この嘆きの後もイエス様は向き合い続けます。それは、いまだに続いています。イエス様はいつも私たちの方に顔をむけておられます。
3.寛容と忍耐で
最後にイエス様は「あなたの子どもをここに連れて来なさい(41節)」と言います。嘆きつつも癒されます。神様は甘いから見逃しているのではありません。最終的に背き続ける私たちの罪を赦すため十字架にかかられました。見逃すのではなく、身代わりになって赦してくださったのがイエス様です。それは「我慢」という言葉のニュアンスを越えた、愛と赦しなのです。この方と向きあいましょう。
<思い巡らし>
私たちの姿は/イエス様と向き合いましょう。