たとえ悪が栄えても

エレミヤ書 12章1~6節  牧師 鈴木光

預言者エレミヤは同胞から命を狙われますが、神様に守られて助かります。しかし、彼は神様に逆らうものが栄えたりすることについて神様に訴えはじめます。

1.主の裁きにゆだねる
「なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか」とエレミヤは言います(1節)。確かに、世の中には明らかに悪い者が裁かれることなくむしろ力をふるっているような時があります。誰でもそんな場面を目にしたり、巻き込まれたりすると、エレミヤと同じように感じるでしょう。
エレミヤは過激にも神様にこう言います。「彼らを屠られる羊として引き出し、殺戮の日のために取り分けてください(3節)」
そこまで言うとちょっと…、という気もしますが、それほど本当に悪い相手もいるということでもあるでしょう。その中で注目すべきなのは、エレミヤがその裁きを主にゆだねて祈っているということです。新約聖書にもこうあります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい(ローマ12:19)」

2.屠られる羊
もう一つ注目すべき言葉があります。それは「屠られる羊」という言葉です。私たちはこの屠られる羊が、十字架にかけられたイエス様のことを連想する言葉であることを知っています。神様に裁きをゆだねて祈るとしても、同時に思い出すべきことがあります。第一に、その人のためにもまた、イエス様は十字架で死なれたということ。第二に、私たち自身もまた同じ罪人であるということです。
イエス様はこう言います。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」

3.意外な主の応答
さて、エレミヤの裁きを訴える祈りに対して、主の応答は意外なものです。それは、もっとひどいこと(裁き)がこれからエレミヤのみならず、ユダの国全体に起こるということです。さらに今日の個所を越えて続きを見ますと(14~17節)、ユダの国もその敵国もすべて一旦滅びることと、しかし、主に立ち帰るならどちらも回復の約束があるということが語られています。人間の怒りをはるかに超えた主のスケールの大きな裁きがあります。裁きはゆだね、私たちは主に従いましょう。

<思い巡らし>
裁きは主にゆだねて祈りましょう/「屠られた羊」について思い巡らしてみましょう/ほかはどうあれ、私たちは主に従いましょう