哀歌の向こうにおられる主
エレミヤ書9章 牧師 綿引久美子
「涙の預言者」と呼ばれるエレミヤ。2つの涙がエレミヤの心から流れます。
1.エレミヤの涙(2節,5節)
エレミヤは、9章の前の節で、『私の頭が大水の源となり 私の目が涙の源となればよいのに』と言葉にしたことが記されています。エレミヤは、神の民であるユダの人々のあまりの偶像と罪のひどさに、嘆きの涙を流します。この時代、北と南に構えていた大国との狭間で、いつもユダの人々は国際情勢に恐れを感じていました。本当なら、唯一の神だけを信頼して助けていただければよかったのですが、この大国にも助けを求めていました。異国の神が入り交じり、」神殿では偶像礼拝も行われ、聖なる高台も築かれ、悪しき習慣も生活に混じってきていました。それなのにユダの人々は、そのことを軽く考えて、そのことから目をそらしていました。『神を知ろうとしない』これが神様の裁きを受けることになります。
2.エレミヤの涙(19節)
エレミヤは、ユダの人々に対して、神様の裁きと悔い改めを語るために神様から召命を与えられました。エレミヤにとって、神様の言葉を人々に伝えることは決して喜びを感じることではありませんでした。なぜなら、神様と思いを一つにしていたからです。『女たちよ、主の言葉を聞け。耳を傾けて、主の口の言葉を受け入れよ』、エレミヤは、神様が正しい方であること、また私たちに義(正しい関係性)を求められる方であることをよく知っていました。それゆえに、今の人々の堕落した現実を見逃さないこともよくわかっていたのです。決して免れることのない厳しい裁きがユダの人々に降ることを知っていました。愛してやまないユダの人々を、裁かなければならない神様の心を知るエレミヤは、神様と思いを一つにして涙を流します。
3.哀歌の中にある神様の思い(23節)
エレミヤは、『あなたたちの仲間に、嘆きの歌を教え 互いに哀歌を学べ』(19節)と言います。これは『目覚めて 神様を知りなさい』ということです。哀歌は、『お前のために心を痛めて泣き 痛ましい悲しみの声をあげる』(エゼキエル27:31)嘆きの声です。エレミヤは、哀歌を書き、聖書に残しています。哀歌には、人々の嘆きの声の向こうにおられる神様の姿が、影絵のように映されています。
『主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない』(哀歌3:31)
ユダの人々は、エレミヤの言葉通り、この後、神様から一度見放され、捕囚の民となって故郷を離れます。そしてその後、イスラエルに帰還し、父なる神様は、御子でおられるイエス様を遣わしになり、私たちに永遠の救いの業を現実に行われるのです。
*嘆きの歌、哀歌の向こう側に、神様の救いは確かにあるのです!!