むなしい言葉

エレミヤ書7章1~15節  牧師 綿引久美子

受難節に入りました。私の罪のため十字架にかかってくださったイエス様に慰めを覚えるそんな箇所です。

1.エレミヤの説教(2~4節)
エレミヤは、預言者です。涙の預言者です。エレミヤの語る神様からの言葉は、真の預言でありながら、民には受け入れられず偽預言者のように扱われ、孤独な人生を強いられます。旧約の時代は、モーセの時から(公認としてサムエル)神様のお選びになった人を介して神の民たちに、神様の言葉が届けられてきました。預言で語られることは、人の信仰が迷いさまようことを打ち消して、真の信仰へ導く神様の愛が、顕われています。しかし、私たちのレベルではなく、神様の基準であるために、真の問題に私たちがたどり着けないことが多々あります。エレミヤは神殿の前で、そのような問題を抱える神様の民たちに、神様の言葉を取り次ぎます。問題は私たちにあります。
2.むなしい言葉(4節)
民には、神様が常に自分たちの見方であるという奢りがありました。彼らは北イスラエルが滅びた時、自分たちの神殿が倒れなかったことをいいことに、神様は自分たちの所は決して滅ぼさないという的外れな確信があったのです。『主の神殿、主の神殿、主の神殿』とむなしい言葉で主を仰ぎます。神様には呪文のように届いていたのでしょう。エレミヤは、神様から託され、その大きな民の罪に気づき、主の示される真の道へ戻るように警告します。しかし、民の頑なな心には届かず、エレミヤを偽預言者呼ばわりし神様の言葉に耳を貸しません。自分の口から出るむなしい言葉に気づかない彼らは、自分たちの先祖がしてきた神様に対する背きを繰り返すのです。

3.強盗の巣窟(11節)
民の目に映る『主の神殿』民の汚れた行動に染まり、神様の目には『強盗の巣窟』に映っていました。これこそむなしい言葉です。イエス様と出会う前の私たちの心はきっと『強盗の巣窟』のようではないのかなと思います。その私たちの口から出る言葉は、どんなに繕っても、どんなに着飾っても隠せない空しさを持っているのでしょう。『なんと空しいことか。すべては空しい』コヘレトの言葉には何度も記されています。ここには隠された言葉があると思います。『神様がいなければ』です。いける神のいない神殿だからむなしいのです。私たちは神様から与えられた人生を喜ぶこと(コヘレト5:17)を与えられています。イエス様の十字架で流された血潮は、強盗の巣窟を一掃し、私たちを真の主の神殿へと新たにされる唯一の手段です。与えられた人生が神様とあることを喜び、日々感謝をもって恵みを数えて、十字架を仰ぎましょう。