荒れ野の誘惑
マタイによる福音書4章1~11節 牧師 鈴木光
先日はルカによる福音書から、同じ出来事の個所を読みました。今日はマタイによる福音書から、イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受ける出来事を見てみましょう。
1.荒れ野はチャンス
どちらの福音書でも同じ出来事が記されていますが、マタイとルカそれぞれの注目点で書かれているので違いが出ます。そこにこそ、今日のメッセージがあります。
まず、どちらも悪魔の誘惑を受けますが、マタイの福音書では特にそれが「悪魔から誘惑を受けるために」と主体的に「荒れ野」に行かれたことが強調されます。
誘惑は本来、神様から私たちを引き離そうとする力ですから、望ましくないものですが、それもまた神様との関係を確かにするものへと変えられています。キーワードは「荒れ野」です。荒れ野は誰もおらず、何もないところです。孤独は、誘惑にもなりえます。しかし同時に神様とだけ向き合うチャンスにもなります。
あなたは人生の荒れ野で何と向き合うでしょうか。
2.肉体に関する誘惑
向き合うべきものは何かということを試すような誘惑がここから始まります。最初の誘惑は「肉体」に関する誘惑です。40日の断食を経て空腹のイエス様に悪魔は、石をパンに変えたらいいじゃないか、と誘惑します。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えます。自分の肉体を生かすことを第一にして向き合う誘惑があります。しかし、本当に私たちを生かしているのは何かを思い出すように言われています。
3.御言葉との向き合い方の誘惑
次に悪魔は、その御言葉との向き合い方を誘惑します。実際に聖書の言葉をひいて、そのとおりになるか神様を試すように仕向けます。しかし、イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」とやはり聖書の言葉で退けます。御言葉は試すためではなく、信じるためにあることを教えてくれます。
4.誰を主とするかの誘惑
そして最後は本命である、誰を主として向き合うかということを問う誘惑です。悪魔は自分を拝むように言いますが、イエス様は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と御言葉によって退けます。
<思い巡らし>
「荒れ野」時間をチャンスに/神様との向き合い方を再点検しよう。