実践的主の祈り

マタイによる福音書6章9~15節  牧師 武田遣嗣

主の祈りは、その一文一文の意味を理解した上で祈る時、私たちの信仰生活を支える祈りとなります。

・「天にいます私たちの父よ」
「天」は、神様が高所に住んでおられることを示すのではなく、「地」にいる人間とは別格の存在であることを示します。また「父」は神が私たちの祈りを親身に聞く父親のようなお方であることを示します。すなわち神は私たちの祈りを親身に聞くお方であり、かつ祈りに答えることのできる偉大なお方なのです。

・「御名が聖なるものとされますように」
「神を聖とする」とは、神を自分自身やあらゆる偶像とは別格の偉大な存在とすることです。私たちは無意識に「自分を神とする」過ちを犯します。この祈りは私たちの心を「自己中心」ではなく、「神中心」にし続けるために必要です。

・「御国が来ますように」
私たちは若くても、年配者であっても、明日天国に行くかもしれない存在です。ですから私たちはこの祈りを通して、天国のゴールを念頭に置き、今日、今週できることに集中していく必要があります。

・「みこころが天で行われるように」
私たちは自分の願うことが一番良いと考えてしまうことがあります。この祈りは「神様がどうおもっておられるのか。何を望んでおられるのか」という視点を持ち続けるために必要です。

・「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」
「糧」とは食材だけではなく、私たちの生活に必要な全てのものを含みます。「今日も」とありますから、この祈りは「今日必要なものは何か」吟味した上で祈る必要があるでしょう。

・「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」
負い目とは「借金」という意味を含んだ言葉です。マタイ18章によると、イエス様は私たち自身が返済出来ない罪の借金を、十字架の死によって返済してくださるのです。この祈りを通して、私たちは罪を告白し、常の人生を軌道修正していく必要があるでしょう。またこの祈りは私たち自身が赦す者になるためにチャレンジを与えています。

・「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」
この世には神の試みと悪魔の試みがあります。ヤコブ書は神の試みを喜ぶように教えています(ヤコブ1章2節)。一方悪魔の試みは、私たちを自己中心、自分の願い、自分の所有物に固執させ、神との関係性を断ち切ろうとするのです。神を離れず、悪に屈しない信仰生活を送るために祈りましょう。