ピラトと悲しい仲間たち

マタイによる福音書27章11~26節  牧師 鈴木光

イエス様の死刑を公に認めたのは、当時のユダヤ含むシリア州の総督だったローマ人のポンティオ・ピラトでした。

1.ねたむ人々
 ピラトは取り調べる中で、イエス様には罪がなく、ユダヤの指導者たちがイエス様を引き渡してきたのは「ねたみのためだと分かって」いました(18節)。
 「ねたみ」は誰の心の中にも生まれうるものです。それは「自分はこれがあれば満たされる」と思っている(思い込んでいる)ものが、自分ではない他人にある時に出てきます。それを奪い取るためには、今日の個所のように時として殺人にまでつながる恐ろしい内なる罪でもあります。私たちを本当に満たすことのできる方は、神様だけです。他のもので埋めようとすればするほど、ねたみは人を支配します。

2.正しくあれないピラト
 ピラトは何とかイエス様を助けようと試みますが、ユダヤ指導者たちに扇動された人々の勢いに最後は押し切られます。そして、彼らの前で手を洗い「この人の血について、わたしには責任がない(24節)」と言って責任を放棄します。立場上、少しかわいそうなピラトですが、彼もまた私たちの罪の姿をうつす鏡です。すなわち、正しい選択を知り、それをする力と責任があっても、それが果たせない姿です。

3.みんなやっていればいい?
 指導者たちに扇動された群衆は「その血の責任は、我々と子孫にある(25節)」と言ってイエス様の十字架刑を叫び求めます。しかし、実際のところ彼らは「責任」など考えてもいなかったでしょう。「みんなが言っているから」、それが殺人であっても自分のこととしてとらえていないのです。神様は一人ひとりの罪を知っています。みんなが言っていても、やっていても、それで罪の責任が問われないわけではありません。

4.ただ赦された人
 最後にピラトは群衆の求めに応じて、イエス様ではなく強盗、殺人、暴動の罪で囚人となっていたバラバを釈放します。ねたみ、殺人、群集心理、まさに罪の渦巻く中で、その代表者がイエス様の代わりに赦されます。まさに、イエス様の十字架によって赦される私たちの姿がそこにあります。

<思い巡らし>
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