たった一人で
マタイによる福音書26章36~46節 牧師 鈴木光
十字架の前の晩、イエス様はゲツセマネという場所で祈りました。
1.ぺしゃんこ
「ゲツセマネ」とはオリーブの油絞り場を意味する名前です。今でもその場所は残っていますが、オリーブの植わっている公園のようなところです。当時は油絞り機と作業場などもある広い公共の場所だったのでしょう。イエス様はこの場所に弟子たちと共にきて、少し彼らと離れたところで祈ります。しかし、その祈りの様子はまさにオリーブが絞りつぶされていくような苦しみの姿でした。
これから味わう十字架の最大の苦しみは「父よ(39節)」と呼ぶ、愛する神様から引き離され、完全に孤独に死んでいくことでした。イエス様は十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(27:46)」と叫びます。
神様から離れ、滅んでいくのは本来罪のある私たち人間の姿です。しかし、罪と最も関係のないイエス様が、その一番恐ろしい現実を代わりに受けられました。
「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とイエス様は祈ります。「杯」は神様の怒りが注がれるものをあらわす言葉です。最も神様の怒りを受けるべきでない方が、私たちの代わりに怒りの裁きを受けられました。
2.たった一人で
この苦しみの時をイエス様はたった一人で受け取りました。一緒にいた弟子たちは眠くなって寝てしまいました。これもまた、十字架でたった一人で罪の罰を受けるイエス様の姿を思い起こさせます。
私たちの身代わりになるべき罪のない方はイエス様だけですから、イエス様はたった一人でこのことをしなければなりませんでした。私たちはイエス様の十字架の救いのために何もできることがありません。ただ、受け取るだけなのです。
そして、私たちが信じて受け取り命を得ることを何よりも喜ばれるのです。
3.目を覚まして
イエス様の救いを受け取ったなら、今度はイエス様についていきましょう。「目を覚まして祈っていなさい」とイエス様は言います。いつも、イエス様と共に歩んでいくことを呼びかけているのです。
<思い巡らし>
私たちの代わりに打ち捨てられたイエス様/ 十字架の赦し(救い)はただ信じて受け取るだけ/ 目を覚ましてイエス様についていきましょう
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